漂流日記8

NHK特集ドラマ 「軍港の子~よこすかクリーニング1964」

このドラマは2023年8月10日に放映され、筆者はこれを観た。

時代背景は昭和21年(1964年)、つまり敗戦の翌年のことである。

 

昭和21年は、筆者が縁故疎開していた、父の故郷和歌山県西牟婁郡江住村江須の川の父の実家から、今の都会のラッシュアワー時に匹敵するくらいに混雑し、また安定した時刻表通りには運転されていなかった当時の列車にただ一人乗り込んで、ローカル駅江住から東和歌山へ、そしてまた天王寺、大阪と乗り換えやっとの思いで東京駅に到着し、更に破壊された窓硝子も目立つ山手線を利用して、長年慣れ親しんだ池袋駅西口に降り立ったときは呆然として立ち尽くしていたことを今でもハッキリ覚えている。

 

駅前にあった軽い食事も出来る和菓子店は消滅していたし、目立つのは焼け焦げた丸太ん棒の柱ばかりだった。

それでも、学校は再開し、「東京の中学校へ入学せよ」という母の強い願いもあって、弟妹と母は疎開地江住村に残したまま、小学6年生の筆者だけが、当時仕事のため単独で東京にとどまっていた父が暮らしていた、空襲で焼け残った要町の家に落ち着いたのだった。

 

確か、3月か4月か?ぎりぎり入学願書の提出が可能な中学校を父と、本家の伯母{(筆者より年長の子供たちと、筆者の祖母(つまり父の実母)と同居しながら東京にとどまっていた。}の協力で探し出して貰うことが出来、筆者は追試験を受けて旧制の東京都立石神井中等学校(旧東京府立第十四中等学校)に合格し、ここに通学し始めた。

 

昭和21年には、筆者のように敗戦後、何はともあれ晴れて中学生となれた子供たちが居た一方、このドラマの主人公たち、いわゆる戦争孤児たち(その頃は戦災孤児と呼ばれていたが)のように自らの責任でも無い、どころか、いわれの無い、人間として最大の不幸な状態に突き落とされ、過酷な運命の中に呻吟していた大勢の罪の無い子供たちが居て、十分なケアも手配もされていなかったことに対し怒りの念を押さえることが出来ない。

 

これこそが戦争の本質なのだ。個人にとっては、どんな戦争であっても、戦争は有ってはならない。将に百害あって一利無しと断言出来る。

 

 

漂流日記7

「天皇最後の記者会見」


同学年の明仁君(つまり、今現在の天皇=更に今は退位して上皇)も、誕生日を迎えて、どうやら半年ばかり年長の私と同年齢85歳に追いついたようだ。

誕生日の記者会見で、時に声をつまらせながら、思いを述べたらしい。

来春には譲位とのことだ。

こちとらのような庶民には譲るべき位も無いから、強いて言えば、「終活」と言ったところか。

 

まあ、同年齢の誼で、ざっくばらんに言わせて貰えば、明仁君の所為とは言わぬが、「平成」とは一口に言って「到底、良い時代とは言えまい。」


どちらかと言えば、ろくでもないことばかりが起こっている内に、そのまま終わりを告げてしまったような時代だった、と言えようか。

 

それに比べ、「昭和」の時代は多難ではあったが、後から考えてみれば、起伏に富んだ、なかなか興味深い時代であったように思える。

 

彼(明仁君)にとっても、私にとっても(この後、一々断らないが)、既に生まれたときから15年戦争は始まっており、町へ出れば軍服姿が闊歩していた。

 

しかし、大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)が開始される前までは、少なくとも内地では、徐々に戦時色が濃くなりつつあった、と言っても、どこかにまだ、余裕というものを感じることが出来た。

 

それに引き換え、大東亜戦争開始後は一挙に緊張感が高まり、連日、大本営報道官のあの特徴ある、キンキンした声がラジオから流れるようになった。

 

緒戦の大勝利も、そう長くは続かず、大本営発表の勇ましさとは裏腹に、銃後の国民身辺は徐々に追い詰められ、余裕の乏しい、殺伐とした雰囲気が充満しだした。

 

帝国陸海空軍が連合軍によって制海空権を一気に狭めらるれと、本土防衛、決戦が唱えられ、私たちのような少国民には、首都や大都会の敵空襲を避けるため、「疎開」が薦められた。

 

付け加えると、「疎開」の対象は学童のみでは無く、場所によっては、人々の暮らす「家屋」などにも容赦なく、課せられたのである。有り体に言えば、戦闘にとって邪魔になりそうな家屋、建造物などは「聖戦の大義」の一言で、遠慮、会釈無く、一方的に撤去、破壊された。

 

だから、単に戦闘員のみならず、非戦闘員全員を含めた1億人の国民が、あの無益で、残酷な戦争に否応なく巻き込まれることになり、それぞれが平時とは異なる犠牲を強いられ、人によっては、その後の人生、運命を大きく狂わされる結果となった。

 

私自身は国民学校(小学校)5年生の夏に、東京から山形県へ集団疎開(学校のクラス全体が、担任の先生と寮母さんに引率されて、移住すること。)させられた。

 

明仁君は、我々庶民の環境とは、当然異なるが、それでも彼も東京の親元暮らしから栃木県の那須へ疎開したのである。

 

私について、言えば、山形県へ集団疎開した、その年の冬前に、父が迎えに来て、父の生まれ故郷、和歌山県南部の漁村にあった本家に縁故疎開し、土地の国民学校に、6年生終了間際(昭和21年1、2月頃)まで通学することになった。

 

学童達が、この疎開により、多かれ、少なかれ、その後の自らの人生、運命に、己の意志とは関わりなく、大きな影響を及ぼされたことは間違いない。

 

特に、東京下町の学童疎開児たちの少なからぬ者たちが、3月10日の東京大空襲によって両親や兄弟、住む家まで失って、いわゆる戦災孤児となり、その後、苦難の道のりを背負わされることになった事実を、決して忘れてはならない。

 

明仁君も私も、それらの孤児達に比べれば、比較にならぬ程、幸運な人生を歩むことが出来た上、こうして、当時、想像もつかなかった85歳という年齢を迎える事態となったのには、誠に感慨深いものがある。その点では、天皇でも、市井の下流老人でも本質的には、変わりあるまい。

 

「天皇制」そのものについては、私なりの意見もあるが、今ここで、それには触れない。

 

それより、明仁君が過ごしてきた年月と私のそれとは当然重なる訳だから、敗戦に続く惨めで、猥雑な戦後、ようやく人間らしさも回復してきた昭和24、5年のベビーブーム時代から、彼と私が過ごした高校、大学生であった青春時代の自由と冒険の時代を迎えて、彼も、それまでの天皇とは異なり、宮廷から街へ出て、テニスを楽しんだりして、後に皇后となり、生涯の伴侶ともなった美智子さんと知り合う機会も出来た、というわけだ。

 

しかし、彼の方はまた、私と違って就職などする必要はなかったが、私は一介のサラリーマンとなり、高度経済成長時代の一翼を担い、そしてバブル時代の絶頂期に、私はフリーの技術翻訳者に転進して、多忙で、刺激に満ちた充実の人生を謳歌し、やがてやって来るバブル崩壊の兆しを確かと確認も出来ぬまま、昭和の時代は終わりを告げることになった。

 

私個人が望んだわけでは無いが、それでも当時は東京に居を構えていたので、バブルのゆがんだ果実を貪ったことは否めないし、それ故、その大きな代価をバブル崩壊後にたっぷり払わされたことも事実で、それが今の下流老人の遠因ともなっている。

 

同じ85歳の老人として、彼が経験してきたところに由来する、一連の行動、活動、特に戦争を憎み、その犠牲となった(特に、沖縄の)人々に対する思いには、矢張り、それなりの共感を有しているし、その発言には、立場上の配慮もあるだろうが、私は彼の真意を良く理解することが出来る。

 

それは同学年、同時代を生きた者同士の誼(よしみ)というべきものだろうか。

漂流日記6(書き下ろし)

2018年10月18日(木)

漂流日記6

<晴れ、湿度低く爽やか>

今日から日記も転載では無く、書き下ろしとなる。

写真は今日撮った、片男波海水浴場の駐車場が閉まる、数十分前のものだ。

 

つまり、異常な暑さに辟易していた私もようよう散歩に出る気になった、と言うことだ。

 

ことは高齢者で無ければ、全く気にならない筈の「歩行」の問題だ。

暮らしに関するNHKのミニ番組で、解説者が「
転倒による高齢者の死亡事故が、今や交通事故のそれを2倍も上回っている」と語っていた。

そして、転倒を防ぐための運動や、歩行訓練を薦めていた。

私は、矢張りもっと前の自分と比べると、毎日外出して歩くという事はしなくなった。

しかし、自分の意識として、必要となれば、いつでも歩いて外出することは、然程困難無く出来る、と感じて居る。

 

それでも、家では毎日、椅子を使って脚のストレッチを自分なりに工夫して続けているし、どうしても長時間となると、背中を曲げないと腰や背骨の筋肉が痛くなってくるので、背中を板の廊下にピタリと付けて伸ばしたり、その姿勢で、できる限り脚を上げたりして腹筋運動に勤しむことは、している。

 

まあ、そうして「歩行」を補っているつもりだが、矢張り実際に「歩く」のとは異なる。

それで、今日は特に気持ちの良い日だったので、台風で砂が打ち寄せられ、平均して50-60センチは砂に埋まってしまった海岸を歩き、海水浴監視台の下辺りで、これらの写真を撮影した。

途中で、この海岸を長年に亘り撮影し続けている写真家のMさんと出会い、ちょっと挨拶を交わした。

軽い散歩をこなして、机の前でこれを書いて居る、と言う次第。

 

漂流日記1の転載

2018年7月31日(火)
漂流日記1
<晴れ-気狂いじみた暑さ>

 

85歳の誕生日を迎えた。

 

『人生五十年』を標榜していた時期も、とっくに過ぎた。

 

実際に、略五十年で逝ってしまったのは、父母、特に母のお気に入りだった、兄妹で一番の美人とも評判され、或る意味では、私の一番のライバルでもあった3歳年下の妹であった。

 

生前、最後に出会ったときの寂し気な表情が、今でも目に浮かぶ。

 

『元気出せよ。』と言う声を掛けた記憶は残って居るが、今にして思えば、もう少し優しく、何か聞いてやるべきだったか?という後悔もある。

 

心臓を病んでいた妹が突然死んでしまったので、当時必ずしも体調が優れていたとは言えない私自身に、俄然長男としての責任感がフツフツと湧き上がってきた。

 

それは、自分がやらなくて、誰が母を支える?!という思いだった。

 

世に”逆縁”と言われるが、母の憔悴ぶりは傍で見ていても辛かった。

 

それに耐えようとして西国札所巡りを始めた母を横目で見ながら、私自身も再生を図ることにした。

 

本能の求める海の傍で、仕事しながら、日々を送ろう、と。

 

こうして、私の紀南白浜と東京西部地区を定期的に往来する暮らしがスタートした。

 

その結果、私の心身は見事に再生することが出来た。

 

海の様々な幸と、潮風と、人々と、愛のお蔭で…。

 

その略1/4世紀の間には、素晴らしい出会いがあり、詩心が高揚し、先祖のルーツである紀南を体感し、葛藤と懊悩にも苛まれながら、ここ(現居住地)に、今85歳の自分が存在して居る。

漂流日記2の転載

2018年8月10日(金)
漂流日記2
<晴れ-蒸し暑さ、この上なし>

 

兎に角、この日記の操作-作成には苦労させられた。

 

先ず、新しい日記を更新するに際し、それを上に追加するか、下に配置するかを、簡単に切り替えられるものと、安易に考えていたが、事はそう簡単では無かった。

 

最初の設定を変更するためには、既存の日記帳を削除して、index頁から設定し直さなければならない。

 

index頁には、当然他の処理も既に施してある。

 

それらも含めて全て廃棄し、一からやり直すというのは、いくら何でも余りにも面倒だ。

 

そこで、index頁の名称を変更して、試みてみたが、そうした頁では、Web上に表示することができなくなってしまった。

 

それで、或る程度途中まで戻って、やり直してみているのだが、これで、果たして、考えている通りにうまく行くか、どうか?

 

保証は無い。

 

しかし、この日記を「終活」の一環として、続けて行く心算なら、結局、何が何でもやり通すより仕方が無い。

 

全く、暑い夏だ!

漂流日記3の転載

『2018年8月13日(月)
漂流日記3

<晴れ一時曇り>

 

今日は旧盆の入りだ。

去年までは東京風に、新暦に従っていたが、周りとは一致しないので、当地風に改めてみた。

 

だからと言って、格別なことをするわけでも無い。

 

人並みに迎え火を焚き、改めて故人たちを偲んでみたりするだけだ。

それだけのことで、僧侶を招いて、お経を上げて貰ったりなどはしない。

 

元々檀家寺は当地には無く、生まれ故郷である東京、池袋の祥雲寺が、それであるが、それとて、今は無き先代の住職と多少面識があったからと言うだけで、格別熱心な檀家という訳では全く無い。

 

現代では仏事に金が掛かり過ぎる。

 

こんなことは、元来気持ちの問題だから、自分の都合の良いように、そして、自分が納得するようにやりさえすれば、それで良い。

 

有り難いことに、こうした考え方や、やり方に真っ先に賛成してくれるのは、恐らく、この紀の国ルーツの私の父親だろう。

 

私が、こうして当地に住み着き、多分ここで人生を終えるであろうこと

(ただし、骨を埋めることは無い。私の入るべき墓は既に東京西部地区の都営霊園内に建立されており、そこでは紀州生まれの父が待っているし、現在、私の所で保管している母の骨もまた、いずれ行くことになってる。)

についての決断に際し、この父の影響が大きかったことは否めないが、もう一つ決定的な判断に至った要因(或る出会いによる我が人生の大転換)のあった事実もまた、率直に述べて置かねばならぬだろう。

 

お陰様で、(外部からはどう見えるか知らぬが、)こうして自由に生きて居られるのも、これまで出会った多くの人々との関わりによって得られたものであることは間違いあるまい。

 

話は変わるが、この日記帳の上下に示す写真は、これから涼しくなれば、歩き回って記録し、補充して行くつもりだが、何せ、今の異常な酷暑状態の続く間は、過去の写真を利用することにする。

 

それにしても、紀南本家の従兄姉たちも今や、一番上の従姉(東京在住93歳)のみを残し、全て亡くなってしまった。

 

みんな何処へ行ってしまったのだろう?と改めて思う。

そして、何処で、何をしているのだろう?

 

単に、生物学的に死亡し、化学的な燃焼反応の末、消滅してしまっただけのことか?

 

それは、間も無くか、あるいは、いずれその内か?分からぬが、いつか自分自身で、それを見届けることが出来るだろう。

 

河合隼雄教授では無いが、残念なのは、それを見届けた上で、その事実を、こちら側に残った皆さんに、お伝えする術が、どうやら見当たらぬことだ。

 

だが、もしかすると、異次元の世界が我々の住む次元と共に併存していて、他次元に移行した故人たちは、みんな矛盾無く、存在し続けているのかも知れない。

 

そう考えてみると、何やら、楽しみが一つ増えたような気が、し無いでもない。』

漂流日記4の転載

『2018年8月15日(水)
漂流日記4
<晴れ一時俄雨>

 

73年前の8月15日も、矢張り暑い日であった。

 

終戦(正しくは「敗戦」、どう言い換えてみたところで、「無条件降伏」を受け入れたのだから、完全なお手上げ、どうにでもして頂戴!状態であることは間違いない。)記念日と呼ばれている。

 

白石君という友人の陶芸家がFacebookにも書いて居たように、その日も確か、今みたいに、とても暑かった記憶がある。

 

だが、私は終戦の詔勅なるものを聞いていない。

 

私だけでは無い。当時の私の家族全員が、実は聞くことが出来なかったのだ。

 

何故か?

 

当時、私は国民学校6年生、家族全員で東京から、父の生まれ故郷である紀伊半島の小さな漁村の、当時空き家となっていた本家の大きな家に、縁故疎開していた(但し、父だけは東京で補綴学の教授として歯大に勤務していたので、東京と、この紀南の漁村との間を行ったり来たりしていた)。

 

そんなわけで、偶々8月15日には、父は我々の疎開先である和歌山県江住村に滞在しており、米国留学も経験している父の判断で、日本の敗戦も間近く、このまま戦争が継続されると、米国海軍の夜間の艦砲射撃も頻繁に行われるようになってきた状況や、沖縄戦の結果からして予想されるように、もう、いつ敵が上陸してくるかも知れない、という懸念が高まり、その前に、山中に横穴の避難場所を探そう、ということになって、その日は家族全員で1日中、本家の持山の中に入って居た。

 

夕方、家の近くまで戻って来ると、何やら、村の様子もいつもと異なっており、人伝(ひとづて)に聞いて、戦争の終結を知った。

 

ところで、国民学校(今の小学校)では、日本は古来、明治維新の開国前後を通じ現在に至るまで、欧米列強による植民地支配を受けなかったアジアで唯一の国である、と教えられて来た。

 

それで、虐げられながら、アジアの欧米植民地に暮らしている人々を、同じアジア民族として解放するのが、聖戦の一つの目的である、とも教えられた。

 

種々の要因があるにせよ結果的に、今は、殆どのアジア諸国は、少なくとも表面的には植民地の地位からは脱している。

 

ところが、私の考えでは、日本の敗戦によって、別な形の植民地支配が確立されることになり、それは今でも確りと継続されている、と考えられる。

 

それは、一体何処の話か?と問われれば、答えは、アメリカ合衆国による日本国の潜在的植民地化である、ということになる。

 

現在、日本にある「民主主義」はアメリカ合衆国のための、それであり、真の民主主義とは程遠い。我々日本人の間には、実は今でも、本当の民主主義など存在していない、と言えるだろう。

 

敗戦後73年経っても、未だにアメリカが治外法権を有する基地を堂々と保有しているし、「非核三原則」などと曰(のた)もうても、核を持ち込んでいる当事者(アメリカ)が、それを公式に認めない限り、日本国内に核は存在しないのだ、という詭弁が罷り通るような政府が存在することからしても、それは言えるだろう。

 

だから、良く考えてみれば、戦後の日本の全ては、アメリカの意向に従って進行したものと言える。(無論、現在の沖縄に集中している米軍基地も、勿論そうだが…。)

 

現実に、アメリカのポチになった政治家や実業家だけが力を持つことになり、それに逆らったり、批判的な行動を取る者は次々と、手段を選ばぬ(我々からは見えない)秘密組織によって潰されて行く。

 

その証拠の1例として、ホンの氷山の一角であろうが、Facebook上に投稿された鈴木宗男氏の動画もある。

 

こんな状態を延々と100年近くも放置したままで良いのだろうか?嘗(かっ)て99年間の約束で英国に支配され続けて来た香港ですら、1997年には中国に返還された。

 

73年目の敗戦記念日を機にそろそろ、真の独立を果たし、日本人のために、まともな民主主義を確立すべきではないのだろうか?』

漂流日記5の転載

実は、HP”ぶらいおんの 来た道~往く路”
http://www.burairoad.ejoh.org/を開設して、Web Diaryなるものを活用していたのだが、自分の32インチディスプレー以外でチェックしてみると、文章部分に他の部分がオーバーラップしたりして、満足に読むことが出来ない。

 

色々試行錯誤してみたが、一向に埒が明かないので、一旦諦め、タブレット画面でも問題無く読める、このブログに、既アップロード分を転載して、皆さんのお目に掛けることにした。

 一応、時点を遡る方向で掲載することにする。(新しい日付から古い方へ、となるが、数日分しかアップロードしていないので、それが終われば、本来の順序に従い、ここで続けようか?と、今は考えている。)

 

 さて、85歳の高齢者となった筆者が、どんな日常を過ごしているか? 知り合いの方々には息災ぶりを確認して頂けよう。

『2018年10月8日(月)

漂流日記5

<今日は可成り湿度が低く、快晴の気分良い日>

 

  相変わらず、この日記には苦労させられる。
  いや、別に、書く内容に苦労させられるのでは無く、デスクトップ上のショートカットから、この日記をスムーズに作成する手順に苦労させられるのだ。普通にやれば、簡単に出来るはずの操作が、考えた通りには行かない。

 

 一例を挙げれば、今日撮った3枚の写真をそのままアップロードすると、上下逆転して、表示されたりすることだ。

 その話は、このくらいにして、次に移ろう。

 

 上の写真は、私が台風後、初めて片男波海水浴場へ散歩に出たことを示している。

 

 その先日の台風の影響で、思ったより、矢張り砂が押し寄せて来て、よく利用していたベンチなどは見当たらなくなっている。

 

 流されてしまったか? あるいは砂の中に埋没したに 違いない。

 

 今は定期的に出掛ける仕事は無くなった。 それでも、イベントでもあれば、バスで出掛けたりするのだが、そんなことも無ければ、外を歩き回ったりることは少なくなった。

 

 未だに、まともな天候では無く、嫌な蒸し暑さの日などは散歩する気もしない。

 

 家の中では机に向かうことが多く、32インチのディスプレーで、デスクトップPCを触ったり、iPadで、電子書籍を読んだり、facebook、twitterをチェックしたりするのが日課だ。

 

 その他には、下の写真の楽器Venova(黒色のケース入り ―― 白いプラスチック製の管に、マウスピースが装着された管楽器。)を入手して挑戦し始めた。

 

 サックスに似た音色で、音は気に入っているのだが、何せ、全くの、音楽ド素人で、音符も読めない80代半ばの老人がやろうというのだから、傍から見れば、無謀な、暴走老人ということになるのかも知れない。

 

 しかし、音楽自体は昔から大好きで、多くの演奏を、この歳まで聴いて、楽しんで来た。

 

 だが、楽器をやったことは全く無い、と言ってもよい。

 

 今で、言えば小学生の低学年の頃から、音楽を勉強して、なれるものなら音楽家になりたい、と本気で考えていた。

 

 ところが、それに賛成して、熱心に教えてくれる、と約束していた、当時担任の、音楽の先生であったK先生が突然、召集されて、私の目の前から去り、間もなく戦死されたことによって、音楽家になりたい、という夢も消え去り、それ以来楽器に親しむ機会は全く無かった。

 

 全ては戦争の故だった。

 

 そんな人間が、そう簡単に、満足な音色も出ないような楽器を始めてみても、やっぱり無理というものなのかなぁ? 本当は自分にも良く分からない。

 

 いずれその内、その後の経過について、書ける日もあるかも知れない。』

 

 

漂流日記転載
漂流日記転載

 


 

 

超高齢者問題を抱える、この国で「老い」を考えてみる

「老い」というものは、別に、そう楽しいという程のものでも無い。

 

長く生きていれば、そうなってしまう、という、単なる自然現象に過ぎぬ。

 

「老い」無くても、2年程前に、この写真の時の会(俳優品川徹の傘寿を祝う会)で会って、しかもそれが最後に話したことになってしまった大杉漣君(写真向かって左)や、その前に事故で亡くなってしまった、矢張り元転形劇場メンバーの李三郎君(向かって右)のように、いつの間にか、この世から居なくなってしまう人達もある。

 

筆者は今の天皇と同学年だが、退位する「位」も持っていない。しかし、住宅ローンの残債は未だ8年くらいあるから、92歳まで掛かっても支払い終えることが求められている。

 

米国の高価な武器は唯々諾々と購入する予算はあっても、高齢化に伴う社会保障に掛かる費用は極力押さえ込まねばならぬ、と考える現政権の方針に従って、年金は漸次引き下げられ、たとえ老々介護であろうとも、介護度の認定は厳しく引き上げられ、金銭的、肉体的負担は高齢者にも重くのしかかる。

 

それでも、戦時中のスローガンを彷彿とさせる「1億総活躍社会」の勇ましい掛け声に追いまくられ、今は週に3日フル出勤で仕事している。しかし、長期的なものでは無いので、いずれまた何か仕事を探して稼がねばやって行けない。

 

そう考えると、余り長生きしないで、突然消えてしまうのが良いのか?

いや、決してそうでは無く、できるだけ長生きして色々なことをやった方が結局、勝ちなのか?

 

それはよく分からない。それに、そんなことは人によっても考え方が異なるであろうし、一概には言えまい。

 

筆者は、これからPythonやRaspberry Piを活用、学習して、AIにDeep Learningを実行させて、何か面白いことが出来ないだろうか?と考えて居る。

 

別に、画期的なプロダクトを創造しようという訳では無い。そこそこ楽しめれば、それでよいのだ。

 

まあ、老人の遊びだな。それならもう少し生きて、やりたいことやってみてもいいかもね。

 

「何故もっと、後の時代に生まれ無かったのか。」などとボヤいたりせず、たとえ昭和一桁に生まれても、長生きすりゃ、まだこれから面白いこともやれる訳だから、まあ、そういう意味では、長生きもまた、悪くないか?! 


未来の街
未来の街

 兎に角、自分の全て(My Favorite Things)は、間もなくこのような形、このような場所で、このようなやり方でのみ表現し、発信して行くことになるだろう!

 

 いずれ自分の生活の大半はウェブ上で成立して行くだろう。今、そしてこれから先はこのような場所でしか生き残る余地もないだろう。

 

 そんな状況だから、自分のほぼ全てが出せるような環境作りを念頭に置きながらやって行くしか無い。