<一日一書>No.2(百六十五)

和歌祭り
和歌祭り

「先送り-逃避-自他欺瞞主義」

『今日は金曜日。
 天気は曇り、気温低し。』
 
 さて、今日の話を始めよう。

 
  本年は辛亥革命から100周年という。孫文が亡くなる前、最後に日本を訪れた際、政府は東京への立ち入りを拒み、止むを得ず孫文は神戸で「大亜細亜主義」をテーマに講演を行った。その最後部分を紹介しよう。

 曰く『貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取り入れると共に、他面亜細亜の王道文化の本質をも、持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるのか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。』

 それから100年後、日本は孫文の喝破した通り、”詳密な考慮と慎重な採択”を真剣に行ったか、否かすら甚だ怪しいものだが、今や将に覇権国家米国の鷹犬(ポチ)に成り下がっている。これが、現実の日本の姿である。

 2011年12月1日の朝日新聞「天声人語」には、沖縄の悲惨な歴史と現在に触れる、次のような記述がある。『(前略)▼1955年、沖縄を怒りで奮わせた「由美子ちゃん事件」の犠牲者は6歳だった。米兵に暴行された遺体は、海岸で雨に打たれ、手を固く握りしめていたという。他にも、基地の島で繰り返された性犯罪は数え切れない▼(中略)』。このコラムの最後は次のように結ばれている。『戦後、66年。押しつけておけば済む話では、もうない。』

 筆者は、このようなジャーナリストを含めた現在、大方の日本人が示す態度に怒りを禁じ得ない。このコラムにおいても、それは如実に示されている。つまり、その最後に続けて、「では、どうすればよいのか?」の問題提起と方向性に関する論点が全く提示されていないことだ。

 筆者の識る限り、日本国の沖縄県以外の都道府県で、積極的かつ実現可能な形で沖縄軍事基地を引き受けようと表明したところは皆無である。そうとなれば、 次の論点は自明である。大方の日本人が認めようとしない覇権国家米国の軍事基地をこのまま放置し、自分(本土)は嫌だが、他人(沖縄)にならば押しつけ て、己を誤魔化し続け、人間としての良心を放棄した状態で恬淡として些かも恥じることは無いのか?日本人(政治家から一庶民まで)の資質を根本的に問い糾 してみたい。

 そこには、王道文化の片鱗すら見いだせないではないか。

 筆者はこれを、今の大方の日本人によって形作られる、日本国の「先送り-逃避-自他欺瞞主義」と名付けよう。
 (ここにおいて、“欺瞞”に冠した“自他”について説明を加えておこう。“自”は自らの結論を先送りし、己の立場を曖昧にして、自分自身を誤魔化すこ と。それと同時に、他者に対しても自分の立場を鮮明にすることなく、曖昧なまま結論や意見を先送りする事態を意味している。)

 沖縄問題-日米安保条約の根本的見直しの他にも、赤字国債を発行し続ける姿勢、然り。また脱原発問題の結着回避も、然り。アメリカンスタンダードのグローバル化による大損失を真正面から確認しようとしない去勢体質、然り。およそ、枚挙に遑が無い。

 それらの資質を備えることが、既に或る種の要件となってしまっている政治家共はいざ知らず、それを覚醒させねばならぬ立場の市民たちまでが、その同類に堕してしまって、どうする?

 日本国のみならず、そんな国ばかりが増えれば、間違いなく、救い難い人類の末路もそう遠くはあるまい!