「詩をきっかけとして考える会」4月例会案内

テロのあったボストン市
テロのあったボストン市

  今回も既に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナーに開催日時と場所は掲載済みであるが、改めて4月例会案内を送信する。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 4月24日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
             

 取り上げる話題(テーマ)は以下の通り。

 既に決定しているように、本年度は、昨年度の大テーマ(国家)に対立する概念としての”個人”=人間にウェイトを置く方針となっているが、今回は私にとり最も差し迫った、身近な問題について参加者と共に考えてみたい。

 

 (1)現代日本人は一体何歳くらいまで生きるのが適当か?私は現天皇と同年生まれだから、私も彼も誕生日が来ると、いやでも満80歳となる。彼の両親は既に他界しているが、私の母は現在満101歳で健在である、と言っても何をもって”健在”とするかは?また大いに問題である。ただ単に『食事と排泄』が、他人の介助を要したとしても、己の身体機能のみで可能であることで足りるのか?必ずしもそうとも言えまい、と私は考える。同居する家族も立派な高齢者のみである場合、公的な介護制度が存在すると言っても、この制度は飽くまでも家族の介護を前提としているので、その辺に解決すべき問題が存在する。
 勿論、家族こそが同居する老人の長寿を願っているのが最も多いケーであろう。従って、それらの家族がいやも応も無く介護の負担を担うべきである、とする論に反対することは難しい。しかしながら、現実には介護すべき家族の年齢が大変重要な問題となって来る。
 いわゆる「老々介護」となると、人によってはとっくに自らが介護を受けているのと同年齢の高齢者であるにも拘わらず、止むを得ず介護する側に回らねばならぬというケースも少ないわけでは無かろう。現に私自身が、その具体例と言える。この場合の負担は、より若い同居家族の負担とは比較にならぬほど深刻な問題をもたらす。本人が、他人の手を煩わさぬよう努力するだけでも常に可成りの身体的、心理的負担を負っている人間が、更に自分以外の他人を介護するという労力は想像を絶するものがある。
 となると、現代日本で人は何歳くらいまで生存するのが適切か(或いは生存を許容すべきか)?という問題となって来る。これは机上の空論では無い、現実の問題である。

 

 明日月曜日には、母の介護保険の介護度認定のため、市役所から担当者がやって来る。現在世話になっている介護施設業者から派遣されて来て呉れているケアマネージャーが立ち会ってくれるのだが、彼女が言うには母の介護度が上がると、介護保険の利用者(つまり、母と言っても、実質的には私)の自己負担額が増加するという。介護を受ける度合いが高まれば、介護の難度も上がり、必然的に介護費用(利用者の負担額)も上昇するという。一見合理的とも思えるが、介護する家族側から言えば、難度の高い同居家族看護の負担を嫌でも遂行せねばならぬ上、更に自己負担額も増加するというのでは「傷口に塩をなすり込まれるような仕打ち」とも言いたくなる。
 つまり、介護制度はそれなりに役立っていることは当然認められるが、不完全なもので有って、結局、実質的負担が社会的弱者に押しつけられている面の存在を見過ごすことは出来ない。


 何処かの国の首相が、自らの状態を如実に示す<アホノミクス>とやらに浮かれているようでは、日本人にとって自らの生存限界を定める必要性が、それこそ「喫緊の課題」となっていることに老いも若きも日本人全体が気付くべきである(他人の問題では無い、私自身の問題であることは間違いないが、これを読まれる貴方自身の問題でもある)。

 (2)映画「アンナ・カレーニナ」を観た。改めてトルストイの思想について考えてみたい。


 (3)自分の専門では無い考古学関係の翻訳依頼があり、手掛けた感想と「翻訳」について改めて考えたことを述べてみたい。


 (4)和歌浦公民館でパソコン教室が始まった。第2、第4木曜日ということで25日が第2回目となる。参加人数が多いので、同じ日に2回やらねばならぬことになった。第1回目はガイダンスとクラス分けの他、無線LAN接続の実習を行った。OS Windows 7搭載のパソコンでは問題なく接続できたが、Windows XPの一部は積み残しとなり、宿題が残った。これを重点的に解決せねばならない。第2回ではウィルスソフトのインストール完了の確認とメーリングリストの構築を行う予定。
 私の方針は年輩の主婦たちでもインターネットを情報入手などで十分に活用し、自らの暮らしに役立て、更に楽しいコミュニティを構築し、互いの交流を深め得るように出来る限りの補助をすることである。


 (注)本会は再三繰り返すように、入会も退会手続きも最初から存在し無い。参加を望む人が参加したい日時に好き勝手に出入りすれば良いことになっている。また、このお知らせは必ずしも参加を勧誘するものでは無く、一種の私信と考えて頂いてもよい。私が今何を考え、どんなことをやっているか?まだ生きているし、この程度の文章が書ける程度には呆けていない、ということを一方的にお知らせする位の意味しか無い。そんなものは不要、という方は迷惑メールの設定をして頂けばよいし、最初から読む気が無ければ、黙殺の上、削除して頂けばよいだけである。
 何度か参加されたこともある方から退会したい、というメールを頂いたので書きました。「最初から入会手続きなど取っていないので退会仕様はありません」というのが返事になります(以上、文責:城 久道)。