映画「野のなななのか」を観て。

予告編
予告編

(註)以下の文章は5月に執筆したものです。

 

 今日は20日だから、映画「野のなななのか」を17日に梅田ブルクで観てから3日経っているわけだが、今でも私の耳の奥にパスカルズの演奏する主題歌のリフレインが何度も聞こえてきて、緑にむせかえる新緑の野や、花の下や、真っ白な雪に取り囲まれた小路を演奏しながら行列する楽隊の様子と、最後列でハーモニカを吹きながらついて行く、死者である筈の大野國朗役の伊藤孝雄(敬称略、以下同様)の姿が目に浮かぶ。

 

 自分の頭の中では無論理解していたのだが、私の友人である、主演俳優品川 徹と電話で話していて、伊藤孝雄は死者のみを演じていたことを改めて確認した。大野の生存時代は若手俳優細山田隆人によって演じられている。つまり、伊藤は死者としてだけ現れ、品川は生者としても死者としても映画の中に現れて来ていることになる。

 大林監督により表現されているように、ここでは死者と生者の間に、はっきりした線引きは無い。

 

 『人』と単純に記して良いのか否か、分からぬが、現世に存在(あるいは見えている)人は生きているのか、または死んでいるのか(彼の世にいるのか、此の世を彷徨っているのか?)はっきりしないことになる。

 

 「人」というものはまた、その人自身の本性如何に拘わらず、戦争や死刑制度によって「人殺し」にもなるし、またそれらの人為的な制約によって「被殺人者」にも成り得る。

 

 常々、私は此の世に「絶対的なもの」というのは存在しないのでは無いか?と考えている。私にとって、絶対的に近いものと言えば、それは男と女の熱い血の交流を知覚する刹那、あるいは渇きを癒す水、飢えを凌ぐ食糧を摂取する瞬間くらいしか思い浮かばない。

 

 大林監督が本当は何を意図しているのか?それは私には分からない。しかし、またそれは分かる必要も無いのだろう。芸術作品とは元々そういうものだ。創り手の意図を受け手である鑑賞者がどう感じようと、どう取ろうと、それは、そのサイドの問題であって、創り手は、受け手の受け取り方が多様であれば、あるほど楽しいだろうし、また満足を覚えることであろう。

 

 私は監督より5歳年長の1933年生まれだから、直接戦場に行ったことこそ無いが、戦争は身をもって体験している。映画の中で、レコードに記録されていた米国機グラマンに、私は縁故疎開先であった紀南の小さな村の海岸で、機銃掃射された経験もある。勿論、国民学校(今の小学校)5年生くらいの非戦闘員であったことは紛れもない事実である。戦争とはそんなものだ。国の安全のためとか、何とか理屈をつけてみても、個人レベルでは人と人との単なる殺し合いでしかない(しかも、殺傷しようとする相手に対し特定の怨みが存在する訳でも無いのに...である)。

 

 人類には、そんな理不尽な戦争は絶対に止めて欲しい、人の力では制御不能な原子力エネルギーの利用は再考すべきだ、賢しげな人智を超える大自然の力には率直に畏怖を自覚し、謙虚な心を失うこと無く、大災害で傷つき、蒙った悲しみと損害を、小さな思いと努力の積み重ねで何とか回復し、復興させて行こうとする人々に心から寄り添って協力する、その行動を持続せねばならぬ、そして人の生き死というものは決定的でも、絶対的でも無い、人も自然もあらゆる生き物はめぐり巡って現れては消え、消えては現れる幻のように不確かなものでしか無い、自然と人の心の調和する生き様(よう)はパスカルズの演奏する主題歌「野のなななのか」に象徴されるように人々の心の中に繰り返して現れ、消えて行く、そんな監督の思いが一杯に詰まった映画である、と受け止めることが出来る。

 

 そのような作品の主要な、ニュースキャスターとも、また死者の思いを伝えるイタコとも呼べる、鈴木光男役の品川 徹は将に適役だ。ここで、無用な誤解を避ける意味で、更に説明を加えるなら、「キャスター」の言葉は、ここでは単に客観的な立場でニュースを伝える人という意味では無い。観客の知らない鈴木光男という男を「形のある存在として表出する役割を果たす人」くらいの意味だ。この文脈で、その存在感を表現できる俳優は、私の知る限りでは彼を置いて他に思い付かない。品川 徹にとって代表作となるであろう作品に違いない。

 

 同様に、大林監督にとっても、己の集大成であるとの思いがひときわ強いことは間違い無かろう。

 

 この映画の制作に際しては、北海道芦別市の物心両面に亘る支援が並々ならぬものであった、と聞いている。その故もあってか、作品中に芦別市の現在、過去におよぶ有様を丁寧に紹介する目的で、少なからぬ時間が費やされている。これが作品の稠密度を高めるのに、負に作用する、という見解もあるようだ。その意見に全く賛成できぬ、と言うわけでは無いが、私は映画を産み出すために、少なからぬ出費が必須である以上、その経費を確保するための手段や現実を率直に認めるべきだ、と考える。たとえ、どんなに優れた着想やテーマが有ったとしても、それが作品として実現しない限り、観客はその映画を観ることが叶わないのだから。

 

 また、芦別市の過去、現在を紹介することによって日本の一地方都市が、国の歴史と密接に関わり合って、その栄枯盛衰の流れを経て行く様子が象徴的に描かれていると考える。将に80歳を超えた私が体験した現代史そのものが、そこに表出されているので、メインやサブのテーマが錯綜することによって、作品の稠密度が薄められる反面、却って混沌とした現世を象徴的に表現している、とも思える。

 整理され切ったものでは無く、混沌としたカオスこそが、この映画の、もう一つのテーマと考えてもよいのでは無いか。https://www.youtube.com/channel/UCmOtb2G-L4AqXramteqr04w

 

 いずれにせよ、三時間近くに亘って私を現実の世界から連れ出し、楽しい時間を与えると共に常々私の頭にある思いを、形あるものとして表出してくれた大林監督、品川さんを初めとする俳優諸氏、スタッフ全ての皆さんに心からの共感と感謝の意を伝えたい。(2014年5月20日城 久道記)