年寄りの試行錯誤

実は色々試行錯誤している。

何としても生き延びねばならぬからだ。

どこに貼り付けるべきか?も良く分からない。

 

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『退位も出来ない 下流老人「ぶらいおん」の漂流人生!』

https://slownet.ne.jp/blog/user/98477 というブログを作成し、投稿してみた。

 

これから、ここに今、毎日Facebook上に投稿し続けている<一日一書>(再開編)を移動させてみよう、と考えている。

 

AI(人工知能)なども興味あるところなので、追々執筆して行きたい。

 

超高齢者の生き様を見守って頂きたい。

 

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2年ぶりの復活? いや、近付く最終楽章に向けての最終処理?

 ここに、こうして書けば良かったんだっけ?余りにも時間が経ち過ぎて、どうしたらよいのか?咄嗟には分からない状態に陥ってしまった。

 まあ、ボチボチと復活という具合に行きますか?

 しかし、そうかと言って、そう、のんびりする程の時間もまた、無かろう。

 全ては流れて行くし、全ては変化し、留まることは無い。


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いつでも歴史は繰り返される

紀三井寺
紀三井寺

 八十年も日本という国に付き合っていると、国という代物のやることはちっとも変りばえしないことがよく分かる。未来の明るい生活をもたらすはずの原子力エネルギーが庶民を犠牲にするだけで、一部の金の亡者とそれに群がる下劣な政治家共の資金源の役割しか果たしていないことは自明である。

 

 廃炉作業を完了させるだけでも五、六十年以上は要する訳だから、事故の犠牲になったり、生活を破壊されたり、その不条理を抗議し続ける人達も、どうせそのくらいの間に大半は死んだり、衰えてしまったりして、いつしか、そんな深刻な事態を知らない人々だけになる。だから、兎に角その間だけ、出来るだけ真実を隠し、嘘をつき通せば足りる、という結論が既に出ていて、政治家や東電はそれに従って行動しているに過ぎない。「除染」だって、その効果の如何?よりも、やっているというジェスチャーに意味がある訳だし、人体を危険に曝しながらも雇用だって創出できているじゃないか、というのが奴らの言い分。

 

 今まで日本という国がやって来た歴史的事実に倣(なら)ってやっていれば、「問題はうやむやの侭、いつしか消滅させることが出来る」と判断した上、再稼働もやるし、危険な原発を他国に売り付け、そのノウハウまで輸出しようということになる(壊滅的な被害の犠牲を庶民に強いた、先の敗戦時と同様のパターンだ)。

 

 有為な若者たちを騙して特攻自殺攻撃を奨励したり、王道楽土を建設するというスローガンの下、他国の農地を奪い取り、うまい汁を吸った企業家や軍部、政治家共が蔓延(はびこ)った反面、残留孤児を生み出したり、戦闘員、非戦闘員を合わせ二百五十万から三百万人もの人々を殺すのが国家であり、そんな国の旧皇族出の総理が、為政者の誤った判断の結果、戦争に負けた途端に「一億総懺悔だ!」と曰(のた)もうたのだから、原発事故によって福島、またその周辺で深刻な健康、生活上の不便や、負担を背負ってしまった方々には心から同情し、誠にお気の毒だ、とは思うものの、実は日本という国が、庶民の迷惑や犠牲など何も考慮せずにやって来た歴史的な現実からすれば、これは今回の原発事故だけが突出した悲劇や被害例ということでもないのだ。

 尤も日本のみならず「国家」というものは大体どこの国でも似たりよったりだが...。

 

 そもそも「国」とはなんぞや?何のために存在するのか?という話になって来る。国は本来そこに居住する庶民の求める形を構成せねばならぬ。しかし、今世界中に存在する国で、その要件を満たす国が果たして実際にどれだけ存在するのか?と言えば、甚だ心許ない。

 

 どんな犠牲を払ったとしても国家の方が大事か、それよりヒトも含めた地球上の生き物全ての生命や、その環境を守り続けることの方が大切なのか?という問題になり、そこで判断は真っ二つに分かれる。

 

 我々庶民は、金や国家の面子などに拘るような考え方を完璧に排し、生きとし生けるものが共存し続けることの出来る世界を構築せねばならない。その為に、いわゆる「国」が、果たして本当に必要なのか、否かも真剣に考えて行かねばならないし、それと共に庶民全体が、その的確な立脚点に拠(よ)って真に庶民の求める国を誕生させない限り、単に誤った歴史を延々と繰り返すことになるだけで、今回の福島原発事故被害の真の克服など到底あり得ない。

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映画「野のなななのか」を観て。

予告編
予告編

(註)以下の文章は5月に執筆したものです。

 

 今日は20日だから、映画「野のなななのか」を17日に梅田ブルクで観てから3日経っているわけだが、今でも私の耳の奥にパスカルズの演奏する主題歌のリフレインが何度も聞こえてきて、緑にむせかえる新緑の野や、花の下や、真っ白な雪に取り囲まれた小路を演奏しながら行列する楽隊の様子と、最後列でハーモニカを吹きながらついて行く、死者である筈の大野國朗役の伊藤孝雄(敬称略、以下同様)の姿が目に浮かぶ。

 

 自分の頭の中では無論理解していたのだが、私の友人である、主演俳優品川 徹と電話で話していて、伊藤孝雄は死者のみを演じていたことを改めて確認した。大野の生存時代は若手俳優細山田隆人によって演じられている。つまり、伊藤は死者としてだけ現れ、品川は生者としても死者としても映画の中に現れて来ていることになる。

 大林監督により表現されているように、ここでは死者と生者の間に、はっきりした線引きは無い。

 

 『人』と単純に記して良いのか否か、分からぬが、現世に存在(あるいは見えている)人は生きているのか、または死んでいるのか(彼の世にいるのか、此の世を彷徨っているのか?)はっきりしないことになる。

 

 「人」というものはまた、その人自身の本性如何に拘わらず、戦争や死刑制度によって「人殺し」にもなるし、またそれらの人為的な制約によって「被殺人者」にも成り得る。

 

 常々、私は此の世に「絶対的なもの」というのは存在しないのでは無いか?と考えている。私にとって、絶対的に近いものと言えば、それは男と女の熱い血の交流を知覚する刹那、あるいは渇きを癒す水、飢えを凌ぐ食糧を摂取する瞬間くらいしか思い浮かばない。

 

 大林監督が本当は何を意図しているのか?それは私には分からない。しかし、またそれは分かる必要も無いのだろう。芸術作品とは元々そういうものだ。創り手の意図を受け手である鑑賞者がどう感じようと、どう取ろうと、それは、そのサイドの問題であって、創り手は、受け手の受け取り方が多様であれば、あるほど楽しいだろうし、また満足を覚えることであろう。

 

 私は監督より5歳年長の1933年生まれだから、直接戦場に行ったことこそ無いが、戦争は身をもって体験している。映画の中で、レコードに記録されていた米国機グラマンに、私は縁故疎開先であった紀南の小さな村の海岸で、機銃掃射された経験もある。勿論、国民学校(今の小学校)5年生くらいの非戦闘員であったことは紛れもない事実である。戦争とはそんなものだ。国の安全のためとか、何とか理屈をつけてみても、個人レベルでは人と人との単なる殺し合いでしかない(しかも、殺傷しようとする相手に対し特定の怨みが存在する訳でも無いのに...である)。

 

 人類には、そんな理不尽な戦争は絶対に止めて欲しい、人の力では制御不能な原子力エネルギーの利用は再考すべきだ、賢しげな人智を超える大自然の力には率直に畏怖を自覚し、謙虚な心を失うこと無く、大災害で傷つき、蒙った悲しみと損害を、小さな思いと努力の積み重ねで何とか回復し、復興させて行こうとする人々に心から寄り添って協力する、その行動を持続せねばならぬ、そして人の生き死というものは決定的でも、絶対的でも無い、人も自然もあらゆる生き物はめぐり巡って現れては消え、消えては現れる幻のように不確かなものでしか無い、自然と人の心の調和する生き様(よう)はパスカルズの演奏する主題歌「野のなななのか」に象徴されるように人々の心の中に繰り返して現れ、消えて行く、そんな監督の思いが一杯に詰まった映画である、と受け止めることが出来る。

 

 そのような作品の主要な、ニュースキャスターとも、また死者の思いを伝えるイタコとも呼べる、鈴木光男役の品川 徹は将に適役だ。ここで、無用な誤解を避ける意味で、更に説明を加えるなら、「キャスター」の言葉は、ここでは単に客観的な立場でニュースを伝える人という意味では無い。観客の知らない鈴木光男という男を「形のある存在として表出する役割を果たす人」くらいの意味だ。この文脈で、その存在感を表現できる俳優は、私の知る限りでは彼を置いて他に思い付かない。品川 徹にとって代表作となるであろう作品に違いない。

 

 同様に、大林監督にとっても、己の集大成であるとの思いがひときわ強いことは間違い無かろう。

 

 この映画の制作に際しては、北海道芦別市の物心両面に亘る支援が並々ならぬものであった、と聞いている。その故もあってか、作品中に芦別市の現在、過去におよぶ有様を丁寧に紹介する目的で、少なからぬ時間が費やされている。これが作品の稠密度を高めるのに、負に作用する、という見解もあるようだ。その意見に全く賛成できぬ、と言うわけでは無いが、私は映画を産み出すために、少なからぬ出費が必須である以上、その経費を確保するための手段や現実を率直に認めるべきだ、と考える。たとえ、どんなに優れた着想やテーマが有ったとしても、それが作品として実現しない限り、観客はその映画を観ることが叶わないのだから。

 

 また、芦別市の過去、現在を紹介することによって日本の一地方都市が、国の歴史と密接に関わり合って、その栄枯盛衰の流れを経て行く様子が象徴的に描かれていると考える。将に80歳を超えた私が体験した現代史そのものが、そこに表出されているので、メインやサブのテーマが錯綜することによって、作品の稠密度が薄められる反面、却って混沌とした現世を象徴的に表現している、とも思える。

 整理され切ったものでは無く、混沌としたカオスこそが、この映画の、もう一つのテーマと考えてもよいのでは無いか。https://www.youtube.com/channel/UCmOtb2G-L4AqXramteqr04w

 

 いずれにせよ、三時間近くに亘って私を現実の世界から連れ出し、楽しい時間を与えると共に常々私の頭にある思いを、形あるものとして表出してくれた大林監督、品川さんを初めとする俳優諸氏、スタッフ全ての皆さんに心からの共感と感謝の意を伝えたい。(2014年5月20日城 久道記)

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