2019年

4月

12日

年寄りの試行錯誤

実は色々試行錯誤している。

何としても生き延びねばならぬからだ。

どこに貼り付けるべきか?も良く分からない。

 

Slownetスローネット

セカンドライフを楽しむ
アクティブシニアの
コミュニティサイトに


『退位も出来ない 下流老人「ぶらいおん」の漂流人生!』

https://slownet.ne.jp/blog/user/98477 というブログを作成し、投稿してみた。

 

これから、ここに今、毎日Facebook上に投稿し続けている<一日一書>(再開編)を移動させてみよう、と考えている。

 

AI(人工知能)なども興味あるところなので、追々執筆して行きたい。

 

超高齢者の生き様を見守って頂きたい。

 

Yahoo!ショッピング

 

2015年

11月

05日

2年ぶりの復活? いや、近付く最終楽章に向けての最終処理?

 ここに、こうして書けば良かったんだっけ?余りにも時間が経ち過ぎて、どうしたらよいのか?咄嗟には分からない状態に陥ってしまった。

 まあ、ボチボチと復活という具合に行きますか?

 しかし、そうかと言って、そう、のんびりする程の時間もまた、無かろう。

 全ては流れて行くし、全ては変化し、留まることは無い。


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2014年

10月

29日

いつでも歴史は繰り返される

紀三井寺
紀三井寺

 八十年も日本という国に付き合っていると、国という代物のやることはちっとも変りばえしないことがよく分かる。未来の明るい生活をもたらすはずの原子力エネルギーが庶民を犠牲にするだけで、一部の金の亡者とそれに群がる下劣な政治家共の資金源の役割しか果たしていないことは自明である。

 

 廃炉作業を完了させるだけでも五、六十年以上は要する訳だから、事故の犠牲になったり、生活を破壊されたり、その不条理を抗議し続ける人達も、どうせそのくらいの間に大半は死んだり、衰えてしまったりして、いつしか、そんな深刻な事態を知らない人々だけになる。だから、兎に角その間だけ、出来るだけ真実を隠し、嘘をつき通せば足りる、という結論が既に出ていて、政治家や東電はそれに従って行動しているに過ぎない。「除染」だって、その効果の如何?よりも、やっているというジェスチャーに意味がある訳だし、人体を危険に曝しながらも雇用だって創出できているじゃないか、というのが奴らの言い分。

 

 今まで日本という国がやって来た歴史的事実に倣(なら)ってやっていれば、「問題はうやむやの侭、いつしか消滅させることが出来る」と判断した上、再稼働もやるし、危険な原発を他国に売り付け、そのノウハウまで輸出しようということになる(壊滅的な被害の犠牲を庶民に強いた、先の敗戦時と同様のパターンだ)。

 

 有為な若者たちを騙して特攻自殺攻撃を奨励したり、王道楽土を建設するというスローガンの下、他国の農地を奪い取り、うまい汁を吸った企業家や軍部、政治家共が蔓延(はびこ)った反面、残留孤児を生み出したり、戦闘員、非戦闘員を合わせ二百五十万から三百万人もの人々を殺すのが国家であり、そんな国の旧皇族出の総理が、為政者の誤った判断の結果、戦争に負けた途端に「一億総懺悔だ!」と曰(のた)もうたのだから、原発事故によって福島、またその周辺で深刻な健康、生活上の不便や、負担を背負ってしまった方々には心から同情し、誠にお気の毒だ、とは思うものの、実は日本という国が、庶民の迷惑や犠牲など何も考慮せずにやって来た歴史的な現実からすれば、これは今回の原発事故だけが突出した悲劇や被害例ということでもないのだ。

 尤も日本のみならず「国家」というものは大体どこの国でも似たりよったりだが...。

 

 そもそも「国」とはなんぞや?何のために存在するのか?という話になって来る。国は本来そこに居住する庶民の求める形を構成せねばならぬ。しかし、今世界中に存在する国で、その要件を満たす国が果たして実際にどれだけ存在するのか?と言えば、甚だ心許ない。

 

 どんな犠牲を払ったとしても国家の方が大事か、それよりヒトも含めた地球上の生き物全ての生命や、その環境を守り続けることの方が大切なのか?という問題になり、そこで判断は真っ二つに分かれる。

 

 我々庶民は、金や国家の面子などに拘るような考え方を完璧に排し、生きとし生けるものが共存し続けることの出来る世界を構築せねばならない。その為に、いわゆる「国」が、果たして本当に必要なのか、否かも真剣に考えて行かねばならないし、それと共に庶民全体が、その的確な立脚点に拠(よ)って真に庶民の求める国を誕生させない限り、単に誤った歴史を延々と繰り返すことになるだけで、今回の福島原発事故被害の真の克服など到底あり得ない。

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2014年

6月

04日

映画「野のなななのか」を観て。

予告編
予告編

(註)以下の文章は5月に執筆したものです。

 

 今日は20日だから、映画「野のなななのか」を17日に梅田ブルクで観てから3日経っているわけだが、今でも私の耳の奥にパスカルズの演奏する主題歌のリフレインが何度も聞こえてきて、緑にむせかえる新緑の野や、花の下や、真っ白な雪に取り囲まれた小路を演奏しながら行列する楽隊の様子と、最後列でハーモニカを吹きながらついて行く、死者である筈の大野國朗役の伊藤孝雄(敬称略、以下同様)の姿が目に浮かぶ。

 

 自分の頭の中では無論理解していたのだが、私の友人である、主演俳優品川 徹と電話で話していて、伊藤孝雄は死者のみを演じていたことを改めて確認した。大野の生存時代は若手俳優細山田隆人によって演じられている。つまり、伊藤は死者としてだけ現れ、品川は生者としても死者としても映画の中に現れて来ていることになる。

 大林監督により表現されているように、ここでは死者と生者の間に、はっきりした線引きは無い。

 

 『人』と単純に記して良いのか否か、分からぬが、現世に存在(あるいは見えている)人は生きているのか、または死んでいるのか(彼の世にいるのか、此の世を彷徨っているのか?)はっきりしないことになる。

 

 「人」というものはまた、その人自身の本性如何に拘わらず、戦争や死刑制度によって「人殺し」にもなるし、またそれらの人為的な制約によって「被殺人者」にも成り得る。

 

 常々、私は此の世に「絶対的なもの」というのは存在しないのでは無いか?と考えている。私にとって、絶対的に近いものと言えば、それは男と女の熱い血の交流を知覚する刹那、あるいは渇きを癒す水、飢えを凌ぐ食糧を摂取する瞬間くらいしか思い浮かばない。

 

 大林監督が本当は何を意図しているのか?それは私には分からない。しかし、またそれは分かる必要も無いのだろう。芸術作品とは元々そういうものだ。創り手の意図を受け手である鑑賞者がどう感じようと、どう取ろうと、それは、そのサイドの問題であって、創り手は、受け手の受け取り方が多様であれば、あるほど楽しいだろうし、また満足を覚えることであろう。

 

 私は監督より5歳年長の1933年生まれだから、直接戦場に行ったことこそ無いが、戦争は身をもって体験している。映画の中で、レコードに記録されていた米国機グラマンに、私は縁故疎開先であった紀南の小さな村の海岸で、機銃掃射された経験もある。勿論、国民学校(今の小学校)5年生くらいの非戦闘員であったことは紛れもない事実である。戦争とはそんなものだ。国の安全のためとか、何とか理屈をつけてみても、個人レベルでは人と人との単なる殺し合いでしかない(しかも、殺傷しようとする相手に対し特定の怨みが存在する訳でも無いのに...である)。

 

 人類には、そんな理不尽な戦争は絶対に止めて欲しい、人の力では制御不能な原子力エネルギーの利用は再考すべきだ、賢しげな人智を超える大自然の力には率直に畏怖を自覚し、謙虚な心を失うこと無く、大災害で傷つき、蒙った悲しみと損害を、小さな思いと努力の積み重ねで何とか回復し、復興させて行こうとする人々に心から寄り添って協力する、その行動を持続せねばならぬ、そして人の生き死というものは決定的でも、絶対的でも無い、人も自然もあらゆる生き物はめぐり巡って現れては消え、消えては現れる幻のように不確かなものでしか無い、自然と人の心の調和する生き様(よう)はパスカルズの演奏する主題歌「野のなななのか」に象徴されるように人々の心の中に繰り返して現れ、消えて行く、そんな監督の思いが一杯に詰まった映画である、と受け止めることが出来る。

 

 そのような作品の主要な、ニュースキャスターとも、また死者の思いを伝えるイタコとも呼べる、鈴木光男役の品川 徹は将に適役だ。ここで、無用な誤解を避ける意味で、更に説明を加えるなら、「キャスター」の言葉は、ここでは単に客観的な立場でニュースを伝える人という意味では無い。観客の知らない鈴木光男という男を「形のある存在として表出する役割を果たす人」くらいの意味だ。この文脈で、その存在感を表現できる俳優は、私の知る限りでは彼を置いて他に思い付かない。品川 徹にとって代表作となるであろう作品に違いない。

 

 同様に、大林監督にとっても、己の集大成であるとの思いがひときわ強いことは間違い無かろう。

 

 この映画の制作に際しては、北海道芦別市の物心両面に亘る支援が並々ならぬものであった、と聞いている。その故もあってか、作品中に芦別市の現在、過去におよぶ有様を丁寧に紹介する目的で、少なからぬ時間が費やされている。これが作品の稠密度を高めるのに、負に作用する、という見解もあるようだ。その意見に全く賛成できぬ、と言うわけでは無いが、私は映画を産み出すために、少なからぬ出費が必須である以上、その経費を確保するための手段や現実を率直に認めるべきだ、と考える。たとえ、どんなに優れた着想やテーマが有ったとしても、それが作品として実現しない限り、観客はその映画を観ることが叶わないのだから。

 

 また、芦別市の過去、現在を紹介することによって日本の一地方都市が、国の歴史と密接に関わり合って、その栄枯盛衰の流れを経て行く様子が象徴的に描かれていると考える。将に80歳を超えた私が体験した現代史そのものが、そこに表出されているので、メインやサブのテーマが錯綜することによって、作品の稠密度が薄められる反面、却って混沌とした現世を象徴的に表現している、とも思える。

 整理され切ったものでは無く、混沌としたカオスこそが、この映画の、もう一つのテーマと考えてもよいのでは無いか。https://www.youtube.com/channel/UCmOtb2G-L4AqXramteqr04w

 

 いずれにせよ、三時間近くに亘って私を現実の世界から連れ出し、楽しい時間を与えると共に常々私の頭にある思いを、形あるものとして表出してくれた大林監督、品川さんを初めとする俳優諸氏、スタッフ全ての皆さんに心からの共感と感謝の意を伝えたい。(2014年5月20日城 久道記)

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2014年

1月

14日

このアニメを見て下さい!

以下は「真実を探すブログ」( http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1519.html )からの引用です。(ぶらいおん)

 

『ドイツに在住している日本人学生が作ったアニメが国際賞を受賞しました。このアニメのタイトルは「Abita(アビタ)」で、福島原発事故の放射能汚染で苦しむ子供が主人公になっています。欧州だけではなく、世界中で様々な賞を受賞しており、色々な所で取り上げられているようです。 しかしながら、日本ではマスコミが報道した痕跡が殆ど見られず、完全に無視されているような状態となっています。アビタはユーチューブなどの動画サイトで見ることが出来るので、興味のある方は是非とも見てみてください。』

 

☆Abita URL http://vimeo.com/51297975 引用:

 

福島の子供たちが、放射能のため外で遊ぶことができない。 彼らの夢と現実について。

 

"Abita", animated short film about Fukushima children who can't play outside because of the radioactivity. About their dreams and realities.

 

Kinder in Fukushima können auf Grund der radioaktiven Strahlung nicht mehr in der Natur spielen. Denn die Natur ist nicht dekontaminierbar. Dies ist nur eine Geschichte von 360.000 Kindern, die zu Hause bleiben und von ihrer Freiheit in der Natur träumen und die Wirklichkeit erleben. Graduate Thesis film by Shoko Hara und Paul Brenner, Sound Design and Music: Lorenz Schimpf Academics: Prof. Klaus Birk Alexander Hanowski Martin Hesselmeier DHBW Ravensburg, Media Design Awards: Best Animated Film, International Uranium Filmfestival, Rio de Janeiro, 2013 Special Mention, Back-up Filmfestival, Weimar, 2013 Upcoming Competitions: Eco-Filmtour, Potsdam, 2014 (nominated) Winter Film Awards, New York City, 2014 (nominated) Screenings: International Festival of Animated Film ITFS 2013, BW-Rolle Japanese Symposium, Bonn, 2013 Nippon Connection, 2013 International Uranium Filmfestival, Rio de Janeiro, 2013 International Uranium Filmfestival, Munich, 2013 International Uranium Filmfestival, New Mexico, 2013 International Uranium Filmfestival, Arizona, 2013 International Uranium Filmfestival, Washington DC, 2013 International Uranium Filmfestival, New York City, 2013 Back-up Filmfestival, Weimar, 2013 Mediafestival, Tübingen, 2013 zwergWERK - Oldenburg Short Film Days, 2013 Konstanzer Filmfestspiele, 2013 Green Citizen’s Action Alliance GCAA, Taipei, Taiwan, 2013 Stuttgart Night, Cinema, 2013 Yerevan, Armenien, ReAnimania, 2013 Minshar for Art, The Israel Animation College, Tel Aviv, Israel, 2013 IAD, Warschau, Gdansk, Wroclaw/Polen, 2013 IAD (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK) Sofia, Bulgarien, 2013 05. November 2013: Stuttgart Stadtbibliothek (BW-Rolle) , 2013 PISAF Puchon, Southkorea, (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK) , 2013 Freiburg, Trickfilm-Abend im Kommunalen Kino (BW-Rolle), Freiburg, 2013 Zimbabwe, ZIMFAIA (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK), Zimbabwe, 2013 Upcoming Screenings: 18. Dezember 2013: Böblingen – Kunstverein Böblingen (BW-Rolle) 21.-22. Dezember 2013: Schorndorf - Kino Kleine Fluchten (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK) 27. August 2014: Künzelsau - Galerie am Kocher (BW-Rolle) Movie Night for the anniversary of the Fukushima desaster,Zurich, 2014 :引用終了

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2013年

10月

22日

「詩をきっかけとして考える会」10月例会

浅草雷門
浅草雷門

紹介:「詩をきっかけとして考える会」

 

 ”詩”とは「風に鳴る弦のように、心の深奥から滲み出す”呻き”の奏でる調べ、のことである」その”詩”を拠り所とし、必ずしも政治的で無く、必ずしも市民運動的でも 無く、はたまた必ずしも宗教的でも無い、生命を原点とする立場から憂き世の現在、過去、そして未来を展望してみよう、と試みるフリーディスカッションの集いである。

 

 既にミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、次回 10月例会を再度案内する。

 

 場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席

 日時: 10月23日(水)午後1時30分より

 「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

 さて、今回、提案するディスカッションのテーマは、実は一部9月例会で取り上げたものと重なるところもあるが、次のようにしよう、と考える。

 

 12月8日に決まった映画上映会”「100年の谺(こだま)」大逆事件は生きている”を少しでも大勢の人達に観て頂くために、私たち(城および土)も呼びかけ人の一人として名を連ねたが、今回はこれに関連することを取り上げる。

 

 幸徳秋水の名を知っている人は結構居るだろう、と思うが、新宮のドクトル大石誠之介を識る人はどうだろう?

 

 今の新宮人も和歌山県人も意外に識らない人が多いのに気付いて、ちょっと吃驚した。

 

 何故なら、今でこそ和歌山市に居住しているが、東京生まれ東京育ちで、60余年を東京で暮らした私でさへ識っているのに…、という思いがあるからである。

 

 私の手元には、今は廃業した和歌山市内の古書店主に依頼して入手した弘隆社発行の大石誠之介全集(全2巻)と、多分、東京か大阪の古書店で見つけた単行本濱畑栄造著「大石誠之介小伝」と岩波書店刊行の森長栄三郎著「禄亭大石誠之介」の2冊の他「熊野誌」という地方史研究雑誌の大逆事件特集号46号および46号別冊と同様特集の54号の3冊がある。

 

 しかし、それらを熟読精査したわけでは無い。生来の所有しているだけで「安心」という己の怠惰な状況を恥じるばかりである。

 

 それでも、何故?そんなに安価でも無い資料を集めたりしたのか?と問われれば、その最も大きな理由は、大石誠之介という個人に関心があった、もっと平たく言えば、彼には好感が持てるし、そういう男が結局、私は好きなのだ、というところに落ち着くことに気付いた。

 

 私は和歌山市内に住んでいても、言ってみれば、東京人である。尤も、ただの東京人なら、特別大石誠之介に関心を持つことも、先ずあるまい。

 

 私がちょっと違っていたのは、自分のルーツが紀南にあったことだ。新宮では無いが、父親は今のすさみ町(元は江住村江須の川)出身であり、何代前からか?は定かでは無いが、そこそこ続いた旧家であったから、その辺に遠因があったのだろう、とは言えよう。

 

 つまり、私も小学生の頃から父親に連れられて夏は学校の休みの間中(あの戦争で中断されるまでは)、枯れ木灘と呼ばれる紀南の海辺で、本家の従兄達や親戚の範囲内ではあるにせよ、紀南の人々と一緒に、彼らと同じ生活を毎年一夏中、体験して育った、ということもあるだろう。

 そして、濱畑栄造著作の自序という項中に、次のような記載を見出だした。

 

 前略『人はどんな人でも欠点はあるものだ。ドクトルはどうしてこんな憂き目をみるやうな結果になったか、この「小伝」を読めば納得の行くことであるが、まとめてみると、(1)自信過剰で、法律を軽んじた事、(2)余りにもお人よしである。祖父呆作の結構呆作をそのまま受けついで、何でもウンウンと呑み込み、寛容度に過ぎたやうである。(3)表面、冷静水の様な性であったが、一たんかうと思ふと火山のやうな爆発的な感情を持った人である。以上の点が特徴であり欠点であった。』後略

 

 これを読んだ時、他人事では無い、と感じた。それは、自分の中にもある性格の様な気もしたが、もっと考えてみると、私の父親もそんな気性を持っていた様な気がする。だからと言って、それが紀南人を代表する性癖とは、到底断じられないが、少なくとも我が家系一統には、其処此処で、そんな傾向がみられたこともまた、否定できない。それと同時に、更に色々な状況での類似点が大石と私の父との間には、有ることに気付いた。

 

 私の父は1898年生まれだから大石誠之介に遅れること略30年後に紀南で誕生したわけであるが、父も大石誠之介同様米国に留学した。医師では無いが、歯科医師であった。帰国後の大石は料理が好きで、当時誰も知らなかった西洋料理のレストランを新宮に設けて一般に普及しようとしたらしいが、私の父も矢張り、料理が好きで、米国から"The Boston Cooking-School Cook Book"という4、5cmも厚さのある本を持ち帰り、良くこれを見ながら当時日本では余りなじみの無かったものを料理して私たちに食べさせ、悦に入っていたものだ。

 

 多分、そんなことが色々重なって私は当初から大石誠之介が好きだったのだろう。

 

 医者であった大石誠之介は45歳で死刑を執行されたが、医業の傍ら全集として纏められた著作は散逸した分を除いても3.5cm程の厚みのある立派なハードカバー2冊分も残っている。

 

 内容は平民新聞や牟婁新報他に寄稿した社会評論や、彼の他の一面を表す情歌(都々逸)作品の他に料理について書かれたレシピや栄養学的見地からのエッセイ等多岐に亘っている。

 

 大石には、情歌を論じた「変哲学的情歌観」とタイトルされた小文があり、これを紹介すると共に、「大石誠之介全集」第2巻の別刷りの付録には、作家水上勉や新宮の詩人若林芳樹の記述、更に池田千尋は「誠之助のコックさん」と題する小文を残しているので、これらから大石誠之介像の一端を垣間見てみたい。(文責:城 久道)

 

<追記>  ドキュメンタリー映画”「100年の谺(こだま)」大逆事件は生きている”上映会の詳細については、上記ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に案内を掲載するが、チラシやチケット(参加協力費)は、城の手元にもあるので、ご希望の方からご連絡頂けば、お届けします。遠慮無くご利用下さい。

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-             城 久道 mailto:buraijoh@gmail.com

URL:「わかやまイベントPLAZA」 http://www.my.zaq.jp/joh/

ブログ 「昭和一桁の ”老人と海”」:http://oldman-and-sea.blogspot.com/

           My Favorite Things! ぶらいおんの詞藻アンソロジー http://buraijoh.jimdo.com/

           ぶらいおんのTwilog: http://twilog.org/buraijoh              "The ぶらいおん Daily": http://paper.li/buraijoh/1335062326?utm_source=subscription&utm_medium=email&utm_campaign=paper_sub

          生活を豊かにする「和歌浦公民館パソコン教室」http://www.freeml.com/wakaurapc/ -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

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2013年

9月

23日

「詩をきっかけとして考える会」9月例会案内

東京駅丸の内口上空に懸かる満月
東京駅丸の内口上空に懸かる満月

 

 

 

 

 

 

 

 既にミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、次回9月例会を再度案内する。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席

    日時: 9月25日(水)午後1時30分より

 

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

              

 提案するディスカッションのテーマは下記の通りである。

 

 「人間の尊厳を破壊する一切の殺人行為(たとえば、あらゆる戦争や、たとえ法の名の下に執行される刑罰、また法により担保される医学的処理事案により齎される殺人であっても)断固反対する」というのが、あの愚かで、人の命を虫けらのように軽んじ来た戦争を潜り抜け、80年間生きて来て、ようやく辿り着いた私の結論である。

 

 ”あらゆる戦争”と表現した途端に、それでは「自衛のための戦争はどうなるのか?」と性急かつ安易に反応して来るであろう人々に、先ず申し上げて置きたい。

 

「自衛のため」という旗を振りかざす以上、貴方はその前提となる戦争の存在をイメージしているのであろうが、先ず、その危険かつ不注意な態度を排除し得る能力を体得することが先決問題である。

 

 徒に煽り立て、戦争遂行を実現しようと企む組織や、軍需産業を含む利益集団や、金力におもねるマスコミに操られて、それこそ存在しないかも知れない「侵略」を殊更に仮定して、論を進めようとする軽率な行為に先ず問題があると言えるが、それに先だって冷静に歴史の事実を振り返り、同じような過ちを起こさないように努める態度こそ肝要であろう。

 

 過ぐる9月18日の82年前、満州事変の発端となった柳条湖事件について、戦時中、私は張学良軍の陰謀による満鉄襲撃事件と教えられ、関東軍出兵は自国民の保護や既得権益保全のための止むを得ぬ武力行使と信じ込まされてきたが、実は「自衛戦争」を演出するための自作自演の陰謀であり、引き続く15年戦争の泥沼に嵌まり込んだ挙句、戦闘員、非戦闘員を併せ250万人とも言われる日本人死者を出し、更に、戦争に巻き込んだ周辺国では、その数倍にもおよぶ人命を失わせる結果となった、とも言われている、この歴史的事実を冷静に判断し、受け止めねばならない。

 

 「自衛戦争」と称される武力行使の実態を見抜くことこそ、冷静で、賢明な人々に求められる第一の要件であると同時に、それが「侵略」であるか否かに拘わらず、「自衛戦争」という概念自体が、その前提として何らかの「戦争」の存在を是認した上で生じて来る考え方であると言えよう。

 

 どなたもご存知の筈の日本国憲法第九条第二項には「…、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と高々と謳い上げられており、これこそ世界中に誇れる、国際的にも最先端を行く比類無く潔い、覚悟に満ちた宣言であり、もし人類が今後の発展と安寧を望むならば、これ以外に選択の余地は無い、と信ずる。

 

 姑息な「自衛権」や「自衛戦争」を、こそこそ論じたり、それについて小細工を弄するのでは無く、その比類無く優れた理念を実現させるべく、自ら世界の先頭に立って行動することによって一切の戦争を排除するためにあらゆる努力を傾注することこそ、偉大な憲法を護持する日本国民の使命と誇りである筈である。

 さて、来る12月8日(日)には、午後2回に亘り和歌山市内「あいあいセンター」において、幸徳秋水や新宮市出身のドクトル大石誠之介等が、当局のでっち上げにより処刑されたとされる、いわゆる大逆事件を描いたドキュメンタリー映画”「100年の谺(こだま)」大逆事件は生きている”を上映する会が企図され、私と、本会の世話人である土 みゆ子も呼びかけ人として名を連ねている。

 

 この映画の上映目的は、アメポチ(アメリカの忠犬ポチ)安倍政権の集団的自衛権発動、その戦争遂行に際して、米国から求められている軍事機密保持を実現しようとする「特定秘密保護法案」が、戦時中の悪名高き治安維持法にも繋がって行くという差し迫った危機感に由来しており、その意味では自賛ながらタイムリーな企画と言えよう。是非、皆さんやお知り合いの方々の、一人でも多くの参加をお願いしたい。

 

 このような悪法による、明かな冤罪事件による誤った死刑執行による殺人は言う迄も無いが、仮に他の理由による殺人犯の死刑であっても、私の死刑反対の意見は変わらない。

 

 先ず、一口に「法」といっても、人の命に関わる場合は、いわゆる神の領域を超えて、不完全な人間の定めたものであり、その上「法」は時の権力者の恣意によって都合よく裁量可能な範囲である以上、「人」という同等な価値を有する他者の命を絶つ権利は、たとえ「法」の名の下であっても、そもそも最初から何人(なんびと)にも許容されていない筈である。

 

 フランスのドレフュス事件では、ドレフュス大尉は冤罪によるスパイ事件で終身城塞禁錮の判決を受け、南米の仏領ギアナ沖のディアブル島(デヴィルズ島)に拘束されていたが、作家エミール・ゾラが先頭に立って、これに抗議した結果、世論は沸騰し、更に幾つかの曲折を経た上、時の首相の特赦によりドレフュス大尉は釈放されたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復することとなった。

 

 それに引き比べ、拙速に、あるいは意図的に命を絶たれた幸徳秋水を初めとする我が国の冤罪被害者達は、自ら無罪を主張する機会さえ理不尽な国家権力にむしり取られ、その意志を引き継いだ遺族達が1961年に東京高裁に請求した再審も4年後に棄却され、1967年には最高裁への特別抗告も棄却されて、今現在に至るまで法的な無罪判決も名誉回復も果たせぬままである。

 

 端的に言って、一つしか無い人の命を絶ってしまった後では、すなわち「法」という一見正義のように見える規定の下で、法の執行に携わる人々の、時にその愚かな人智が犯す、あるいはまた、時の権力者に迎合するため、自らの保身を願う見え透いた偽りや誤謬に基づく、実際には「殺人行為」となる判決を彼らが一旦下し、死刑を執行してしまえば、たとえ、後にその誤りを改め、回復させようとしても、かけがえのない人の命を元に戻す術は、言うまでも無く存在しない。

 

 更に、これに関連して、いわゆる「殺人」を犯した殺人犯の事例であっても、事件や犯人の状況や、生い立ちを精査し、処断に際し、熟慮することが肝要である。

 具体的な事例として、たとえば、いわゆる「永山則夫連続殺人事件」と呼ばれるケースなどについても充分に考察して、考えを深める必要があるが、長くなるので今回はこの辺りに留めることにする。(文責:城 久道)

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2013年

8月

16日

詩をきっかけとして考える会」8月例会案内

東京ビッグサイト夕景
東京ビッグサイト夕景

 既にミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、次の8月例会を再度案内する。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席


    日時: 8月23日(金)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              
 次回、「詩をきっかけとして考える会」8月例会で、どんなことをテーマにして話し合おうか?と考えて居る。思い付くままに挙げてみると、

 

1.人間の営みとは何か?それが少しでもはっきりしてくれば、「何を為して、いつ頃まで生きたらよいか?」などの方向性も少しは見えてくるだろうか?

 

2.「戦争」とは何ぞや?その法的定義は、憲法改正反対の青年法律家協会和歌山支部で、連続3回に亘り開かれている勉強会の最後の会ででも質問してみようか?

3.一体「戦争」なんぞというものは、そもそも何のために必要なのか?本当に「戦争」が紛争やその他の争いの解決手段たり得るのか?(可成り怪しい)。「止むを得ない最後の手段」などと大方の人々は殆ど疑いも無く、そう信じているのでは無かろうか?「一体、それは本当か?」私は可成りと言うより、半ば確信的に「それは正しくない」と考えて居る。


 歴史的に観ても、現状を見ても軍事大国が一方的、一時的に巨大かつ理不尽な力によって表面上紛争を押さえ込んだとしても、報復のテロやレジスタンスの収まったためしは無く、問題は一向に解決していないことは、可成り鈍感な方々でも完全に否定し得ないであろう。

 

4.特定の政治的先入観無しで考えてみても、米国が世界唯一の覇権国家であることは否定し得ない。しかも、この歴史の浅い、愚かな超大国を牛耳っているのは、一握りのマネー資本主義の仕掛け人共である。そして、軍需産業の発展も悪魔の仕掛け人の描いたシナリオに従った映像を映し出しているに過ぎない。


 たとえ、僅かな数の善意の政治家が居たとしても、この悪魔の影響力を排除することが出来ないのが現実である。従って、現在の米国は腐ったモンスターである。

 

5.この世界の、最大の悪魔の言いなりに従って日本を滅ぼそう、としているのが(たとえ、本人達が理解、意識する能力を有していないにせよ)今の自民党、公明党連立政権である。

 

6.この際やるべき事は、憲法を弄ろうとすることなどでは無く、日米安保条約を破棄し、この腐り果てた米国と距離を置き、あらゆる国との等距離外交による全ての問題解決を図ることだ。

 

7.私は軍国少年として教育されたので、8月15日の敗戦記念日を迎える度に、日本人として米国に無条件降伏で敗れた屈辱を忘れることは出来ない。それだけに留まらず、懲りること無く、何度でも米国の言いなりになって来た、この国のリーダー達に「恥を識れ!何度米国に負ければ、気が済むのか!」と糾弾したい。

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2013年

7月

22日

「詩をきっかけとして考える会」7月例会案内

高野山
高野山

 いつものように1ヶ月くらい前に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、間近に迫った7月例会を再度案内する。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 7月24日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              

 例会では、以下に述べる内容を中心に話し合いたい。詳細は以下の通り。

 

 1.私事ではあるが、7月13日に私の母は満102歳の誕生日を迎えた。102歳の人間を間近で観察するのは、無論私にとっても初体験なのであるが、いつも色々なことを考えさせられる。


 他人は気安く「長寿おめでとうございます」と挨拶してくれるが、傍に居て、それなりに責任を持っている人間としては、心から同感して、ありがとうございます、と喜んでばかりも居られない。言う迄も無いが、自分を産んでくれた母親だから、いつまでも死なないで元気で居てくれる、と言うのは単純に嬉しいと感じるのは当然だ。

 

 しかし、一方で母を観ていると、「人間は一体何歳くらいまで生きるべきか?」と常に、私は考えることになる。(中略-次いで、結論に至る説明になるのだが、この例会案内自体が孫達の夏休み来訪で大幅に遅れ、その例会が目の前に迫ったので、いずれ別の場所で発表することにし、ここでは別のテーマも併せて極簡略に紹介して、案内するに留める)

 

 2.インターネット上のAmazon.comのことは、程度の差こそあれ、皆さんご存知のことであろう。以前、これについて述べた記憶も有るが、私は地方都市に居住しているという環境にあり、Amazon.comの物品(特に書籍やPC周辺機器)購入システムを日頃から非常に重宝し、大変役立つ仕組みと、単純に捉えていたのだが、7月13日の朝日新聞朝刊の(限界にっぽん)第4部・続「追い出し部屋」:2「自分が機械になった気分」■日通管理職の「アマゾン行き」商品棚の海、探す「注文」…という記事に行き当たり、胸を突かれた。

 

 兎に角、注文した商品の到着が非常に早い。翌日、お急ぎ便で到着するためには、後何時間以内に発注すればよいか、時々刻々と表示されている。24時間を切っていても全

く問題ない。それこそタイムリミット内に処理が完了すれば、必ず翌日には商品が到着する。私は何度も深夜に注文して翌日商品を受け取ったことがある。ASKULなどでは商品届け先の場所や商品の種類による制限があるが、Amazon.comには、そんなものは一切無い。

 単純に、この素晴らしいシステムはどのように運営されているのだろうか?と漠然と考えていたが、この記事を読みショックを受けると共に、一体「便利さ」乃至「効率」というものを何処まで求めるべきなのか?いや、「便利さ」or「効率」というものが本当に、どれほどの価値があるのか?労働者の人間性まで否定するようなやり方で手に入れるほどの価値のあるものなのだろうか?という疑問に突き当たる。

 

 この問題は、もう一度改めて考えてみる必要がある。実は、これは「便利さ」や「スピード」だけの問題では無い。NHK BS放送のドキュメントWAVEを視聴していても、先進国の人々がディスカウント商品を求め、ブランド品を出来るだけ安価に手に入れようとすれば、その皺寄せが下請けの発展途上国の人々に悲惨な状況をもたらしているという現実、また大量消費国の極端なディスカウント指向が、労働者自らの賃金の低下をもたらし、派遣社員の増加などによる労働環境の悪化を加速させているという事実に気付くと、根本的な問題は、一握りの富裕層のための市場原理主義が、地球上の殆どの人間だけに留まらず、このプラネット上のあらゆる生き物を破壊し、破滅させる方向にしか機能して居らず、その問題解決を意識し、実行するしないに拘わらず、世界中の殆ど全ての人々が、この非情なモンスターに蹂躙され、翻弄され続けているという事実に尽きることになるのであろうか(文責:城 久道)。

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2013年

6月

20日

「詩をきっかけとして考える会」6月例会案内

明日香の仏
明日香の仏

 既に1ヶ月くらい前に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所を予告済みであるが、直前に迫った6月例会を再度案内する。

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 6月20日(木)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              

 例会では、以下に述べる内容を中心に話し合いたい。詳細は以下の通り。

 今朝(6月17日)の朝日天声人語中に、近い内私が東京へ出た際の鑑賞ターゲットにしていた東京都写真美術館で開催されている「世界報道写真展」に触れた記事が掲載されていた。
 イスラエル軍の空爆により死亡した2歳と4歳の誕生日間近の幼い二人の兄弟の写真やパレスチナ自治区ガザで撮影された兄弟の亡骸をモスクへ運ぶ男達の写真などに触れた後に、次のような文章が続く。▼戦争の最大の犠牲者は?と問われれば、それは子どもではないだろうか。国家や大義の呪縛から一番遠くにいながら、大人どうしの憎悪に未来を奪われる。戦火は柔らかい心にも容赦ない傷跡を残す▼とある。この文章はその前段の「シリアはいま泥沼だ。国連によれば死者は9万人を超えた。少なくとも1729人が10歳以下の子どもという。」に続くものだから、筆者も大方の読者も現在の中東の嵐を頭に置いているのだろうが、私は70年前の自分を思い出すのである。

 私が10歳だった頃、我が祖国は泥沼の戦いに疲弊し尽くし、庶民は呻吟しながら、ひたすら虚しいスローガンの下で耐えるしかなかった。
 私は幸い、こうして生き延びたわけだが、東京から縁故疎開した紀南の海岸で、突然、飛来した米軍艦載機(多分、グラマンだった)に機銃掃射された。もともと紀南地方は殆ど水稲を産出せず、いつも米不足に悩まされ、大麦とサツマイモの多く入った茶がゆが主食だったが、更に常に副食(いわゆるおかず)が乏しく、豊かな海が傍にあっても、制空権も制海権も失った危険性と、漁師たるべき元気な男達は兵士や勤労戦士として国に調達されて見当たらず、流通機構も、上手く機能していないので、結局慣れない都会人であろうが、自給自足の道しか無かったのである。その日、東京に残っていた歯科大教授の父が久し振りに疎開した家族の様子を見に来てくれたというわけだ。都会の住人とは言っても、父だけは地元育ちで子供の頃には慣れ親しんだ海だから、長男で小学5年生の私を引き連れて夜のおかずの小魚取りに磯に出たところ、非戦闘員であることが明らかな私と父を米軍機は、搭乗員の顔さえ見えるほどの至近距離から機銃掃射の雨を降らせて来たのである。もう少し具体的に説明すると、その場所は、すさみ町の江須崎である。今は童謡公園があり、エビとカニの水族館で識られる、あの小島の海縁である。
 父と私は天然記念物として指定されている亜熱帯植物群の中に逃げ込み、難を避けることが出来たが、私はあの日の出来事を忘れ無い。

 6月15日に、私も参加している「子どもたちの未来と被ばくを考える会」は丸一年以上過して、その総会と「放射性がれきの問題点」についての報告と医師山崎知行氏の「福島の子どもたちの・今」という講演会があり、その後、引き続いて質疑応答や討議などが続いた。ここで出た、それぞれ立場の異なる人々の意見を聴いていて、或る意味で非常に興味深かったし、それらに関する私の判然とした見解も存在するので、それを何とか分かり易く、また要領よく纏めてみたい、と考えているが、ここではその中で述べられた一つのことだけ触れて置こう。それは会場に福島県から避難されて来て居られる方も見えていて、いわゆる「疎開」の話題が出た。広辞苑には「疎開」とは、その三番目の意味として(3)空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること。「学童―」「強制―」とある。この説明からしても、現代の、福島の児童たちの「疎開」は我々の時代の学童の「集団疎開」とは、些かニュアンスが異なるように感じる。我々が体験した「疎開」は、チェルノブイリがソ連領であったときのような国権による強制的な疎開に分類される。たとえば、軍の速やかな移動の障害になりそうな建造物は、いやも応も無く、権力により強制疎開、つまり破壊されてしまうのである。

 学童たちの集団疎開にしても、田舎に縁故の無い都会の小学生(国民学校生徒)たちは、一、二年生(七、八歳)を除き、一斉に親元から離されて、見知らぬ土地の寺や空いた宿やなどに分散して、送られたのである。
 私は父の故郷、和歌山県江住村(現すさみ町)に縁故疎開するまで、生まれ住んでいた東京の町から山形県の白岩町という全く知らない土地に同級生と共に送られたのである。出発の日、上野駅には子どもたちを手放し、送り出す不安を胸に抱えて、大勢の父母たちが詰めかけていた。その中に私は母の姿を認めた。そして窓から、ホームの端まで走りながら、いつまでも手を振っていた母の姿を思い出すのである。敗戦後、今まで辛うじて日本は戦争に巻き込まれず、切り抜けてきたので、私もこの歳まで生き延び、百二歳まで長生きしている母の面倒をそれなりに看ることになっているが、集団疎開が生死の分かれ目となり、二度と生きて会うことの叶わなかった親子も決して少なく無かったのである。

 「天声人語」記者の「柔らかい心」の表現中に”日本人の子ども”という意識があったか、どうか?知らない。しかし、私こそ”その日本人の子ども”なのだ。心の傷跡は深い。非戦闘員として殺されかけ、食べる物にも不自由しながら(親元から離されたため、その頃、薬局で未だ手に入った「わかもと」を買っておやつ代わりに食べていた子も少なく無かった)親から無理やり離された結果、衛生状態も悪くなり皮膚病に感染し、蚤やシラミを湧かせていなかった子どもたちは無かったはずだ。

 そして敗戦後、突然、教育方針を百八十度転換させ(変節し)て、恬として恥じない先生方や国家の指導者たちの、いわゆる大人達の豹変の態度を見せつけられて、私(当時の子ども)たちは、「力を持って偉そうにする人たちの言うことは絶対に信用出来ないのだ」と身に沁みて体得し、その考えはこの歳になっても全く変わることは無い。

 戦闘、非戦闘員である自国民350万人もの人を殺した上、その何倍もの周辺国の戦闘、非戦闘員をも殺害させた、我が国のリーダー達を、戦勝国による裁判によって「戦争犯罪人」とされたのだ、と決め付けた上、政教分離の原則を無視した靖国神社に祀り、それを参拝するのは当然だ、とは、戦争など知りもしない、その浅慮な愚か者たちの脳みその中は一体どうなっている?

 慎ましくも平和に暮らしていた350万人以上もの命を失い、その家族達の築いた家庭をも破壊した、無能で、道を誤ったリーダー達が、どうして戦争犯罪人では無いのか?

これらの犯罪人達は戦勝国の裁判如何に関わらず、自国民が戦争犯罪人として糾弾すべきなのではあるまいか。そんなことすらまともに対応できず、うやむやのまま葬り去ろうという体質が歴史認識の不適切さとして外国からも指摘されるお粗末さに留まるだけで無く、あれだけの原発大惨事を引き起こしながら、事実は出来るだけ隠蔽し、責任は出来るだけ逃れることに専念し、賠償費用は国民からの税金を投入しようとする、誰一人として責任を負おうともしない東京電力や国の態度からして、そこには何の進歩も変化もみられない。その上、私が最大の問題と考えるのは、そういった事態を平然と(無知や無関心の故かも知らぬが)許容してしまう一般大衆の有り様だ。

 同日の朝日新聞朝刊第一面の見出しに「原発宣伝事故後も24億円」とある。これについても、もっと書きたいが、私の結語は一言「虚しい」に尽きる。そして私の予想がより現実性を帯びてきた証拠である、とも考えている。それは、「人類は今の暮らしを変えない限り、間違いなく破滅に向かって突き進んでいる」ということである。(文責:城 久道)

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2013年

5月

24日

「詩をきっかけとして考える会」5月例会案内

https://twitter.com/eventp_w
和歌の浦干潟なかうみ
 
 考えてみれば、今日(5月23日)は親父の命日だ。連れ合いであった母は既に102歳間近、となると、現時点では親父より40歳ほど年長ということになる。かく申す私自身ですら亡くなった時の親父より20ばかり年上の爺に成り下がったか?あるいは成り上がったか?ということになるが、さて、どちらなのか?俄には分からない。
 では、いつものように、既に1ヶ月前くらい前にミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナー http://www.my.zaq.jp/joh/ に開催日時と場所は掲載済みであるが、直前に迫った5月例会を再度案内する。
 
    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 5月24日(金)午後1時30分より
         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
               
 取り上げる話題(テーマ)は以下の通り。

 (1)県立紀伊風土記の丘の展示パネル整備に関し、英語解説文の翻訳を私が手掛けたことは、前例会でも紹介したが、先日東京から旧知の詩人の訪問を受けたので、同展示館へ案内し、パネルの仕上がり具合も確認することが出来、更に関係された学芸員の方ともお話しすることが出来たので、その報告と5月25日(土)開催の「紀伊風土記の丘 古墳公開①」大日山35号墳とその周辺(普段は公開していない大日山35号墳の横穴式石室を公開!)現地で学芸員が解説。→073-471-6123 (申込不要・無料。自由見学。小雨決行。)のイベントを紹介。

 (2)同様に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナーで案内していた5月19日(日)~26日(日)大阪市内で開催の「イリヤ写真展」<詩人の写真・写真の詩>MAG南森町アートギャラリー 11時~18時(最終日16時まで) (入場無料)→ 06-6353-1866 の初日オープニングに顔出したが、その報告。
 その際、「和歌山の詩人」として紹介されたのだが、私自身は以前から、このことに関し、何やら違和感を感じ続けて居り、自分では「矢張り、自分は詩人では無いのではないか」と未だに感じ続けている。それは、いわゆる「詩」の概念のとらえ方が大方の人々とは異なるからかも知れない。
 会場では出展者3名を中心として「詩」と「写真」は一瞬の時を捉えるという点から共通性が存在するという話になっていたが、私は確かに「詩」も「写真」もそういった面を共通して有するものだ、という点に必ずしも反対するものでは無い。しかしながら、私が「詩」や「写真」を観る際には、その視点は然程重視しない。緻密に計算された構成あるいは構図、またその論理性、そしてその表現力を重く観ている。つまり、エッセンスは寧ろ後者にある訳だし、有るべきである、と考える。例会では、更に芸術表現の同時進行的方法や偶然性の要素について考察してみたい。
 また、「詩人」の概念に比べて見るために、いわゆる「文人」とはどんなものなのか?少し調べてみた。その報告も併せてするつもりだ。私自身は自分を「文人」と呼ぶのは面映ゆいものの、どちらかといえば、この表現の方に親近感を覚える。(文責:城 久道)
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2013年

4月

21日

「詩をきっかけとして考える会」4月例会案内

テロのあったボストン市
テロのあったボストン市

  今回も既に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナーに開催日時と場所は掲載済みであるが、改めて4月例会案内を送信する。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 4月24日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
             

 取り上げる話題(テーマ)は以下の通り。

 既に決定しているように、本年度は、昨年度の大テーマ(国家)に対立する概念としての”個人”=人間にウェイトを置く方針となっているが、今回は私にとり最も差し迫った、身近な問題について参加者と共に考えてみたい。

 

 (1)現代日本人は一体何歳くらいまで生きるのが適当か?私は現天皇と同年生まれだから、私も彼も誕生日が来ると、いやでも満80歳となる。彼の両親は既に他界しているが、私の母は現在満101歳で健在である、と言っても何をもって”健在”とするかは?また大いに問題である。ただ単に『食事と排泄』が、他人の介助を要したとしても、己の身体機能のみで可能であることで足りるのか?必ずしもそうとも言えまい、と私は考える。同居する家族も立派な高齢者のみである場合、公的な介護制度が存在すると言っても、この制度は飽くまでも家族の介護を前提としているので、その辺に解決すべき問題が存在する。
 勿論、家族こそが同居する老人の長寿を願っているのが最も多いケーであろう。従って、それらの家族がいやも応も無く介護の負担を担うべきである、とする論に反対することは難しい。しかしながら、現実には介護すべき家族の年齢が大変重要な問題となって来る。
 いわゆる「老々介護」となると、人によってはとっくに自らが介護を受けているのと同年齢の高齢者であるにも拘わらず、止むを得ず介護する側に回らねばならぬというケースも少ないわけでは無かろう。現に私自身が、その具体例と言える。この場合の負担は、より若い同居家族の負担とは比較にならぬほど深刻な問題をもたらす。本人が、他人の手を煩わさぬよう努力するだけでも常に可成りの身体的、心理的負担を負っている人間が、更に自分以外の他人を介護するという労力は想像を絶するものがある。
 となると、現代日本で人は何歳くらいまで生存するのが適切か(或いは生存を許容すべきか)?という問題となって来る。これは机上の空論では無い、現実の問題である。

 

 明日月曜日には、母の介護保険の介護度認定のため、市役所から担当者がやって来る。現在世話になっている介護施設業者から派遣されて来て呉れているケアマネージャーが立ち会ってくれるのだが、彼女が言うには母の介護度が上がると、介護保険の利用者(つまり、母と言っても、実質的には私)の自己負担額が増加するという。介護を受ける度合いが高まれば、介護の難度も上がり、必然的に介護費用(利用者の負担額)も上昇するという。一見合理的とも思えるが、介護する家族側から言えば、難度の高い同居家族看護の負担を嫌でも遂行せねばならぬ上、更に自己負担額も増加するというのでは「傷口に塩をなすり込まれるような仕打ち」とも言いたくなる。
 つまり、介護制度はそれなりに役立っていることは当然認められるが、不完全なもので有って、結局、実質的負担が社会的弱者に押しつけられている面の存在を見過ごすことは出来ない。


 何処かの国の首相が、自らの状態を如実に示す<アホノミクス>とやらに浮かれているようでは、日本人にとって自らの生存限界を定める必要性が、それこそ「喫緊の課題」となっていることに老いも若きも日本人全体が気付くべきである(他人の問題では無い、私自身の問題であることは間違いないが、これを読まれる貴方自身の問題でもある)。

 (2)映画「アンナ・カレーニナ」を観た。改めてトルストイの思想について考えてみたい。


 (3)自分の専門では無い考古学関係の翻訳依頼があり、手掛けた感想と「翻訳」について改めて考えたことを述べてみたい。


 (4)和歌浦公民館でパソコン教室が始まった。第2、第4木曜日ということで25日が第2回目となる。参加人数が多いので、同じ日に2回やらねばならぬことになった。第1回目はガイダンスとクラス分けの他、無線LAN接続の実習を行った。OS Windows 7搭載のパソコンでは問題なく接続できたが、Windows XPの一部は積み残しとなり、宿題が残った。これを重点的に解決せねばならない。第2回ではウィルスソフトのインストール完了の確認とメーリングリストの構築を行う予定。
 私の方針は年輩の主婦たちでもインターネットを情報入手などで十分に活用し、自らの暮らしに役立て、更に楽しいコミュニティを構築し、互いの交流を深め得るように出来る限りの補助をすることである。


 (注)本会は再三繰り返すように、入会も退会手続きも最初から存在し無い。参加を望む人が参加したい日時に好き勝手に出入りすれば良いことになっている。また、このお知らせは必ずしも参加を勧誘するものでは無く、一種の私信と考えて頂いてもよい。私が今何を考え、どんなことをやっているか?まだ生きているし、この程度の文章が書ける程度には呆けていない、ということを一方的にお知らせする位の意味しか無い。そんなものは不要、という方は迷惑メールの設定をして頂けばよいし、最初から読む気が無ければ、黙殺の上、削除して頂けばよいだけである。
 何度か参加されたこともある方から退会したい、というメールを頂いたので書きました。「最初から入会手続きなど取っていないので退会仕様はありません」というのが返事になります(以上、文責:城 久道)。

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2013年

3月

20日

「詩をきっかけとして考える会」3月例会案内

新和歌浦夕景
新和歌浦夕景

 今回も既に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナーに開催日時と場所は掲載済みであるが、改めて3月例会の案内をする。2月例会において、一部参加者の足の便を考慮して会場の変更を検討したが、より適切な場所が見当たらぬまま開催日が迫ったので、これまでの場所で、以下の日時で開催することに決した。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 3月22日(金)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              

 取り上げるテーマは以下の通り。

 

 (1)3月10日に行われた「原発」を考える市民公開講座の小出裕章氏による講演「福島第一原発の現状と私たちの未来~原発ゼロ世界へ~」参加報告。

 


 (2)梅田ガーデンシネマにおける、原作中上健次、監督若松孝二による映画「千年の愉楽」鑑賞結果報告。

  


 (3)和歌山市在住の金原弁護士の発行するメルマガ金原No.1?298に紹介されていた<マスコミに載らない海外記事>ブログ中の日本国総理大臣安部某のTPP参加決断表明をシニカルかつクールに戯文化し、その実態に迫まった記事を紹介する。

 


 (4)4月より開講の和歌浦公民館「パソコン教室」の準備状況と講義方針について報告し、尚、出席メンバーのご意見も伺いたい。


 (5)その他。

 

<私的蛇足情報>

 1.骨盤にひびが入り、加療入院中の満101歳の母もようやく退院が近付いたが、在宅介護の方法を新たに検討するための関係者ミーティングが準備されており、家族メンバーとして私が参加する。

 2.考古学関連の翻訳依頼が入った。自分の守備範囲であるテクノロジーから外れるが、嫌いでは無い関心のある分野なので挑戦することにした。

 3.少なくとも母の存命中は和歌浦の自宅を確保し、ここで在宅介護を続けられるよう金融機関と資金面での新たな交渉を計画し、来週は東京の銀行の大阪支店で「ファイナンシング・コンシェルジュ個別相談会」の予約を取り、相談(一種のプレゼンテーション?)に臨む。

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2013年

2月

16日

「詩をきっかけとして考える会」2月例会案内」

新宮「お灯祭り」スタンバイ完了
新宮「お灯祭り」スタンバイ完了

Information(イベント情報):「詩をきっかけとして考える会」2月例会案内

 

 既に、ミニコミWebサイト「わかやまイベントPLAZA」上のinformation(イベント情報)コーナーに開催日時と場所は掲載し、ご案内済みですが、改めて2月例会について本ブログ上に掲載致します。

 開催日時と場所は以下の通りです。

 

    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 2月20日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
             

 取り上げるテーマは以下の通りです。

 

 (1)映画「ひまわり」~沖縄は忘れない、あの日の空を~上映会参加報告。
 (2)年配者のパソコンやインターネット関連事項の利用実態や意識について。
 (3)主に文学的観点からの個人(人間)と組織(国家など)の問題(具体例として、エジプトの女流作家ナウル・エル・サーダウィを担当者より紹介。
 (4)関心のある、今後開催予定のイベントや運動(「多治見を放射能から守ろう!市民の会」-重水素を燃料に使用したプラズマ生成実験(重水素実験)に反対する署名活動-)等紹介。
 (5)その他。
 http://www.my.zaq.jp/joh/

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2013年

1月

08日

「詩をきっかけとして考える会」1月例会案内

片男波海岸より海南市方面をのぞむ
片男波海岸より海南市方面をのぞむ

 明けましておめでとうございます。2013年第1回目の例会は下記日時と決まりましたので、お知らせします。

場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
日時: 11月16日(水)午後1時30分より

「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220
              

 さて、本例会テーマをご案内する前に昨12月を一つの区切りとして、私の中で一応の結論に到達することが出来た、検討テーマ「国家」についての纏めを試みてみよう。(長たらしい記述となりそうな場合は、別文書とすることにする)。

 先ず、このテーマに関し、参加して会場で意見や見解をお聞かせ下さった皆さま(特にK、N、Sa、Hm、故Y、Hr、Si、Mt、Tm、Tu-順不同、敬称略)、更に会場参加ではなく、メールで考える方向性を示唆して下さったMd氏のお陰で自分なりに大変得るところがあり、これに対し謝意を表すると共に会の存在意義も改めて確認出来たことを嬉しく感じて居ります。

 

 ところで、私なりの纏めは次の通りである。「国家」とは誤解を恐れずに言うなら「医療」に似て(と言ってもこの言い方も誤解を招く恐れが十分あるが、)或る種の”必要悪”である、と考える。ここで、大方の人々は「悪」の方に目が行き、「とんでもない」「何を世迷い言を!」ということになるであろう。

 

 しかし、私は「医療」は基本的に患者の苦痛や苦悩を軽減して、患者自身の自然治癒力を発揮させれば足り、また、それだけに留めるべきだ、という原理原則を守るのが本来の使命である、と考えている。つまり、過剰医療や延命治療は医療の本質を逸脱している、と考える立場にある。従って、ips細胞を利用して臓器再生治療を図る、という方針にも全面的に賛成は出来ない。科学のために研究を深めることに反対はしないが、その成果をヒトに直ちに適用するか、否か?とはまた、全く別問題である。


 たとえ、人類といえども地球上の生き物の一種に過ぎない。ヒトだけが特別な生命体では無い筈である。全ての生き物は与えられた地球環境の中で、種族維持のために産み落とされ、成長し、繁殖し、自然に死を迎える。極端な言い方をすれば、この範囲を逸脱するあらゆる行為は無神経に採用すべきではなく、この範囲を超えることは「悪である」という主張があってもよい、と考える。
 単なる空想や絵空事であることを承知の上で言うなら「医療」や「医療行為」の存在しない世界こそ理想的であることに反対する人は居ないだろう。

 同じ論法に従って、私は「国家も必要悪の一種だ」と考える。「国家」が存在しなくても、世界中に戦争も、人々の争いも、貧困も、格差もあらゆる差別も存在しなければ、それは理想的な人類社会ではないか。そうなれば、国益も国策も国家の威信も、そんなものは塵のように雲散霧消する筈だ。

 

 しかしながら、また残念ながら、少なくとも現代は、そんな理想的状態とは程遠い。
 また現実に、ヒトという動物の習性に由来して多数の人間が集まって暮らす以上、そこには何らかのルールというか、規範が必要であろう、そしてそれを管理するために組織という機構を要し、それを円滑に機能させる努力もまた求められるであろう。それで(少なくとも現状では)好むと好まざるに拘わらず「国家」という組織の存在を認めざるを得ないことになる。

 

 一方で、国家の運営を誤ると、とんでもない悲劇をもたらすことは過去の歴史の体験から日本人には特に十分に認識できる筈である。
 従って、私の取るべき立場は、「国家」の存在は或る種の必要悪であるものの、その存在自体を現時点で否定することは出来ない。

 纏めれば、今は「国家」の存在の是非を問う時ではなく、「国家」というものの在り方をこそ問題にすべきである、ということになる。目先の利益に眩んで、狭量で、未来を見通す能力に欠ける代表者(リーダー)に舵取りを任せることは非常に危険である。

 

 「国家」には人々が最大の「枷」を掛け、最小の「恣意」しか許容しないことが肝要であろう。この基本方針に従い、そこから逸脱する、あらゆる行為に対し忌憚なく批判的意見を発信して行こう、というのが私の取るべき生き方と活動になる。


 (注)上掲の文章中、表現”必要悪”にどうしても抵抗を感ずる方は、該当単語を”無いに越したことはないもの”と読み替えて頂いても、一向に差し支えない。

 さて、新年からは或る意味で「国家」の対極に位置すると考えられる「個人=人間」を検討課題として取り上げて行こう、と考えている。関心のある方は積極的にご意見をお聞かせ願いたい。

 

 尚、このテーマは一年くらい掛けてやればよいと考えて居り、これとは別に今直ぐやってみたい事案が出て来た。それは1月4日に放映されたNHK BSTV番組 "World Wave Tonight"新春特集中で紹介されていた『今、世界に最も影響を及ぼしている人物のトップで紹介された「ネット署名」で社会に変革をもたらそうとするソーシャルメディアCEOベン・ラトレイ氏。』のことで、ソーシャルメディアでは、現在よく知られたTwitterとFacebookを私自身も利用しているものの、率直に言うと、これらには、どうしても100%納得し、満足することの出来ない物足りなさと違和感を感じていたが、紹介されていた新しいソーシャルメディアは"Change.org"と呼ばれ、既に日本にも上陸して居て「福島県: 県外避難の選択肢を奪わないでください!」という厚生労働大臣に対する、その要求を伝えるべく、賛同を求める署名活動キャンペーンが張られている。

 

 現時点では「102,727人の賛同者が集まりました」という結果になっているが、「目標まで残り47,273人の賛同者が必要です!」と訴えている( http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C-%E7%9C%8C%E5%A4%96%E9%81%BF%E9%9B%A3%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%82%A2%E3%82%92%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84 )。早速、私も署名させて貰った。この活動は世界各地でも成果を上げつつあるようだ。(私の記憶によるものだが、例を挙げれば、米国南部の或る州で13歳の黒人の少年が射殺されたが、射殺し

た者が不起訴となったらしい。これに対し、少年の家族は再三司法当局に抗議したが、相手にされなかった、という。そこで、この"Change.org"で抗議の署名活動キャンペーンを行ったところ、予想を上回る賛同者の署名を得た結果、司法当局もこれを無視することが出来ず、ついに起訴に踏み切り、裁判が開始された、という。
 
 このような活動と成果こそ、ソーシャルメディアの存在価値だ、とかねがね考えて来たので、早速、最近自分で立ち上げたウェブサイト「わかやまイベントPLAZA」(

http://www.my.zaq.jp/joh/を団体として登録し、参加した。

 ところが、私には以前から疑問に思い、糺すべきではないか?と考え続けて来たことがある。

 


 それは、先日日本国内でTwitterでtweetしている世代についての記事があったが、一番多数を占めているのが40代だ、という。市民の意見を行政や国の方針について反映させて行く為に、ソーシャルメディアは有効である、と私は常々考えている。しかしながら、発言が40代を中心とする、いわゆる若年層世代に偏っているとすれば、それは大いに問題では無かろうか。

  


 国家や行政に対しその矛盾や不備を訴え、改良、改善させて行くには、幅広い庶民の偏らない意見を反映させて行かねば余り意味が無い。となれば、インターネットを利用するソーシャルメディアからの意見の発信も幅広い年代層に亘る声なき声の集大成で無ければならない筈であるが、それが一部の年齢層に偏っているようでは問題であろう。

 

 この現象は具体的に「どういう理由から」派生するのか、はっきり分からないが、その理由を探り、その対処方法を見つけ、改善を図って行くことが先ず必須だ、と考える

 


 一般的に、高齢者と呼ばれる年齢層の人々が十分にPCやインターネットを駆使している、という話は余り聞いたことが無い。何故であろうか?私はかねがねPCやインターネットこそ高齢者を含めた専ら身体的ハンディキャップを有する人々にとって、それを克服して活動するために最も有効な手段乃至機器である、と半ば確信してきた。それは著名な宇宙科学者であり、車椅子上から人工発声器を介して宇宙科学を論ずることでよく知られたホーキンス博士の姿ばかりでなく、筋萎縮症を発症しながらも目の動きやストローから発出する呼気の強弱によってPCに入力を行い、発声器やディスプレーを通して自己の意思疎通を図るというハンディキャップを負った人々の姿によって、如実に示されている。

 

 私は、身体的に自由度の制限される高齢者こそPCやインターネットの仕組みを活用して、その恩恵を第一に享受する資格を有する筈である、と考えている。その流れが十分に機能しさえすれば、ソーシャルメディアにおける高齢者層の発言も自然に増え、当然より良くバランスの取れた庶民の発言が為されるようになるであろう。そうで無ければ、ソーシャルメディアによる社会改革の明日が明るい、とは言い難い。

 

 世界でも代表的な高齢者大国である日本の動向は後続の国々からも大いに注目されている。その日本で、高齢者が若年層と共に意見を交換し合い、知恵を出し助け合って問題を解決してこそ高齢者大国日本の未来もある、と言えるだろう。その為には、高齢者がPCやインターネットを無理なく駆使し得るようにすることが、今流行の言葉を借りれば、「喫緊の課題」と言えよう。そこで、私は現在、これらの機器や仕組みを利用していない、主として高齢者(あるいは比較的年輩の主婦)たちに質問したい。「あなたはPC、スマホやインターネットをやっていますか?」「やっていないとすれば、何故やらないのですか?」「実際に手を下すに際し、困難があるとか、実施に対する何らかの障害があるのですか?」あるいは「やりたくない」という「積極的な不採用理由が特にあるのですか?」等々。

 

 その辺りの事情を把握すれば、それぞれの事態に対する解決方法は必ずある筈であり、具体的にはその障害の排除さえ実現すればよいわけで、それが個人的に解決できない様な原因や理由にあるのなら、それを社会に訴えて改良し、実現させて行けばよい、ということになる。

 私はこの観点から、随時、また1月例会においても、もう一つのテーマとして取り上げ、この問題に関するデータの収集を開始したい、と考えている。今まで本会に参加したことの無い方々もPCやインターネットについて、どんなことでもよいから、知りたい、聞いてみたいという人々は是非話に加わって頂きたい。また、この案内を読まれた方ご自身で無くとも、ご家族などその周りに居られる方で何らかの関心を有する方々は勿論、「そういうものの存在や普及には反対である」という方々のご意見も聞かせて頂くことは、この問題を解決し、実現して行く上で非常に有用であろう、と思う。是非ご協力の程をお願いしたい。(文責:城 久道)

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2012年

12月

07日

「詩をきっかけとして考える会」12月例会案内

白浜黒潮台別荘地内の漆
白浜黒潮台別荘地内の漆

 例によって余り間際とならぬようご案内しよう、と書きかけたところで、他のプロジェクトに掛り切りとなり、斯様な仕儀と相成った。ところで、次回例会は年末となるので、忘年会も兼ねようということになった。寒さも日一日と増す今日この頃、冬ごもりの方も居られるかも知れない。そこで趣向として温泉で暖まったところで、今年の反省と来年の方針などを語り合いたい、と企画した。日時と集合場所は最下部に載せた通り。

 

 会場は特に予約していないので、出席の申込みは不要。費用は各自自分の分を負担するものとする。従って、入湯も自由(入ってもよし、入りたくない人は、それでよい)だし、飲食もお好みで、お食事処「味和囲(あじわい)」から、くつろぎ座敷へ取り寄せて頂けばよい。

 

 話題としては、いよいよ一段落を迎えることとなった「国家とは?」についてであるが、最近NHK、BS1で放映された"Why Poverty"「貧困とは何か?」という一連のドキュメンタリーを視ていて「国家のあり方」の方が「国家の定義」よりも遥に重要な問題であることに気付いた。

 

 「国家とは何か?」の定義もさることながら、現実には「国家のありよう」こそ我々一市民(妥協して、一国民と言い換えてもよいが)それぞれが真っ先に問いかけねばならぬ問題であると同時に我々自身が最も大きな影響を直に受けざるを得ない問題でもあることを改めて認識させられた。そして、これに潜む大きな問題は「差別」、「偏見」、「格差」、「新自由主義」の考え方に基づく市場経済原理に根差すものであることに思い至った。この私の考えを話してみてもよいし、(私が考えている)来年の主たるテーマとしての「国家」に対応する位置を占める「個人」あるいは「人間」について、社会科学、人文科学的な観点、特に、本会の名称に相応しい文学的な視点にも目を配りながら進めて行くやり方についても相談したい。その点、ご意見のある方には是非聞かせて頂きたい。(文責:城 久道)

 
    場所: フォルテワジマ地階1階「ふくろうの湯」くつろぎ座敷
    日時: 12月14日(金)午後1時30分より

         「ふくろうの湯」TEL: 073-423-4126

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2012年

11月

10日

「詩をきっかけとして考える会」11月例会案内

老人一揆”決行!
老人一揆”決行!

 さて、今回も差し迫ったご案内となったことを先ずお詫びせねばならない。もちろん、理由はそれなりにあるのだが、直接的には書かない。全体を読んで頂ければ、おおよそ想像はつくであろう。それはさておき、10月例会では前田試論を下敷きにしたT、K両氏の見解を伺う事に決まっていたので、その線に従い議事を進めた。

 

 Tさんの意見は、前田試論に対し更に現実的かつ具体的な修正を要すると考えるものの、基本的には「国家」社会契約説の立場に依ることが確認された。K氏は欠席されたので残念ながら見解を確認することは出来なかった。この試みに関しては、それなりの時間も掛けたので、各参加メンバーの立場確認に関してはこれで一応打ち切りとし、次に進みたい。

 

 「国家」社会契約説の立場において国家の干渉を極力排除して行くと、どうなるか?究極的には二曲の洋楽ポップス、”アナーキー・イン・ザ・UK”と”イマジン”『想像してごらん 国境なんて存在しないと/そう思うのは難しいことじゃない/…』の世界に到達するだろう。すなわち「アナーキズム」、無政府主義と訳されてきた(私見では、世間一般に通用している訳語や用法には腹立たしいが)、この社会思想は「一切の権力や強制を否定して、個人の自由を拘束することの絶対にない社会を実現しようとする主義」と広辞苑に定義されている。

 

 これ以上ない理想的な考え方のようにも思えるが、これはまた一方で、二律背反的な矛盾も現出してくると想像される。納得出来る結論は無理だろうが、その辺を紹介し、参加メンバーと共にもう少し考えてみたい。

  

 その他には、11月3日に河北コミュニティセンターで開かれた「憲法フェスタ」における関西大学吉田英司教授の講演内容の紹介と、その際の私の質問「国もしくは国家とは?」に対する同教授の回答を紹介したい。

 

 更に、考えることには事欠かないのだが、もう一つだけご案内して置く。詳細は、作成添付PDFファイル(PC利用の方はウィルスの心配はありませんので、是非開いてみて下さい)中にある、和歌浦の健康食品ショップ「百姓家族」での”老人一揆”決行!キャンペーン(11月21日(水)14:00-16:00)である。携帯やFAXなどでPDFファイルを開けない方のために簡単に紹介してみると、『ストレス解放して優しくなるために<自称他称”老人”諸君!>和歌浦「百姓家族」に集合!』ということになる。

 趣旨は「貴重な体験を次世代に伝えるため、何処へでも足を運び、身体を使い、頭を生かし、たとえ細やかでも社会に貢献し、元気と自信を取り戻し、高齢者生活環境モデルの一つとして定着を目指す!」というもので、取り敢えず集まり、それぞれが感じ、悩み、考えていることを話し合いましょう。ということに尽きる。

 

 ご賛同下さる方は力をお貸し下さい。(そこで今後のことも考え、ミニコミ情報誌の発行を考えたが、個人では手に余るので、その代わりにWeb上に「和歌山イベントPLAZA」と称するミニコミイベント情報サイトを構築中である。それで、何かと時間を取られる次第である。Twitterでは、既に同名のアカウントを創設し、フォロワーも徐々に増加しつつある(現在200名を超えたところ-アドレスは https://twitter.com/eventp_w )。完成の暁には改めてご案内するので、こちらも是非ご協力の程よろしくお願いしたい。広報はこのくらいにして、11月例会は以下の通りである。(文責:城 久道)

 
    場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
    日時: 11月14日(水)午後1時30分より

         「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

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2012年

10月

14日

「しゃらくさい人生覚え帳」通信第121014号

奈良明日香
奈良明日香

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Twitterで"THE WALL STREET JOURNAL" http://blogs.wsj.com/ideas-market/2012/09/25/vote-should-the-world-increase-its-reliance-on-nuclear-energy/ が次のような設問で投票を求めていることを知り、voteした。

 

”Vote: Should the World Increase its Reliance on Nuclear Energy?”

 

無論、私は"No"だが、19:43 2012/10/14現在、その結果は拮抗しているものの、"No"の意見の方がやゝ優勢である。

 

 その際、私は次のようなコメントを付け加えておいた。

 

 『核廃棄物の放射線レベルが安全と言われる数値になるまで、最低でも10万年という時間が必要だ<ドキュメンタリー映画『地下深く 永遠に~核廃棄物10万年の危険~』(原題“Into Eternity” 2010年デンマーク、5/18NHK・BS1再放送)>、と言われている。単純計算で、縄文時代から現代までの時代を6-7回繰り返す程の時間の長さだ。

 

 そんな常識外れの危険物を平気で後の世にまで、解決策の無いまま放擲するどころか、日々増量し続ける行為を容認しようとする現代人が少なからず存在するという事実を、私にはどう考えても理解出来ない。

 

 それで、このような行為を未来の人類に対する犯罪行為である、という見解に心から同意せざるを得ない。そのような恐ろしい犯罪行為について考えようともせず、目先の経済的効果のみに眼が眩んで本質を見抜くことの出来ぬ野蛮で無知な輩の言説に躍らされている人々の何と多いことよ!所詮”憂き世”とはそんなものか?!』

 

 実は、この文章の前段は、本日の「しゃらくさい人生覚え帳」の項では、こうなっている。

 

『今朝のNHK Eテレ日曜美術館で、最近特に、国宝に指定されたりして注目され始めた縄文時代の土偶を取り上げていた。その時代から現代に至るまでの期間は一万六千年だ、という。そして縄文時代の平均寿命は三十歳でしかなかったそうだ。生きるためには実に過酷な環境だったと言われる。多くの子どもたちが成人すること無く死亡し、それらを葬った甕が纏まって出土した場所も最近発掘されているという。一方で、』と上掲のコメントに続くものだった。

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2012年

10月

10日

「詩をきっかけとして考える会」10月例会案内」

嵐山竹林
嵐山竹林

 去る10月3日に海南駅前”ヴァンサンカン”で「詩人 山田 博を偲ぶ会」を開催したばかりで、気分的にそれに感(かま)け、つい本例会の案内が、このように土壇場となったことを先ずお詫びして置く。


 9月例会では「国家」について書かれたPAM同人前田 保試論を下敷きにして話を進めた。参加メンバーの内、城の立場は「国家」社会契約説(国民は抵抗権を行使し得る)の内でも柄谷行人の「国家廃絶の世界革命」実現のための「贈与による永遠平和の樹立」説が一番抵抗感がない。
 ただ一方で、そのように理想的に事態が運ぶか否か?可成り、というか少なからず、悲観的な思いも払拭できない。


 むしろ、今日Webで辿り着いた「共認の輪」”るいネット”(この団体については何も知らなかった。念の為チェックしてみると週刊朝日との間に訴訟問題があるようで、毀誉褒貶が存在するようだ)それは、以下の話の本筋とは関係ないので、どうでもよいのだが、ここに投稿されて佳作となった文章の内容の方が、部分的には同感できるものがあるので、紹介して、私見を述べたい。


 以下、同文章引用開始『269251 国家に代る新しい社会統合機構とは、何か?
国家が急速に役立たずになっている。その危険性を知っておく
新聞会 12/10/02 AM04
Darknessリンクより転載します。
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~前略~

「国家」という組織が動揺している

日本でも民主党は掲げてきたマニフェストをすべて反故にした。

国民は政治家の掲げるマニフェストを見て選挙で政治家を選んだが、政治家は選ばれたとたんに態度を変質させた。

今や言っていたこととやっていることが、完全に真逆になってしまっている。

本来ならば、この時点でもう政権を担う資格はないのだが、言っていることとやっていることが違ったのは自民党も同じだったので、もう日本は「国家が体をなしていない」という言い方ができる。

アメリカも状況は変わらない。

国をチェンジすると豪語して大統領になったバラック・オバマ大統領はまったく何もチェンジできなかった。アメリカは衰退する一方だ。

ドイツでもフランスでもそうだ。』(中略)

『国家は、企業と国民の間で引き裂かれる

経済も情報もすでにグローバル化した。

しかし、そこに文化のグローバル化、国家のグローバル化が入ったとき、国民の間に大きな抵抗感が生まれた。

文化がグローバル化するというのはどういうことか。それは、自国の文化がなくなるということである。

国家がグローバル化するというのはどういうことか。それは、国家が国民のために動くのではなく、国際社会のために動くということである。

世界中の多くの国民が、それを拒否した。

しかし、企業は逆だ。世界中の文化が単一であり、国家も国際社会のために動き、単一化したほうが仕事がしやすい。

グローバル社会の中で、企業は効率性を求めている。効率性は「流通・経済・情報」の動きを加速させる。

競争に打ち勝つために、賃金の安い国に工場を作り、自国の労働者を切り捨てる。

企業がグローバルな競争に打ち勝つには、安い賃金を求めて海外に出ていくしかない。だから、企業は常にグローバル化の立場にある。

この図式を分かりやすく言えば、このようになる。

「国民は、グローバル化を求めていない」
「企業は、グローバル化を求めている」

国家は、この2つの板挟みに合っている。

国家が国民を守ってグローバル化を阻止すれば、企業から突き上げられる。国家が企業を守ってグローバル化を推し進めれば、国民から突き上げられる。

どちらからも敵視され、どちらにも不要だと思われる。

「国家」はどうなるのか。恐らく、存続が不可能な状況になって、最後に自壊していくことになる。


国家という概念そのものが機能不全に

国家という大きなシステムが壊れていこうとしているのが今の時代だ。グローバル経済、グローバル化がとめられないのであれば、ますます国家は取り残されていく。

世界中のあちこちの国家が国民から「要らない」と突き上げられ、企業から「邪魔だ」と邪険にされている。

そして、国家は累積債務や国民の不信によって現実的にも存続が難しい状態になっているのだから、これから起きるのは、国家という存在の破壊だ。

分かりやすく言えば、「国」が消滅するということになる。

「国」がなくなるとは、現代人には想像をつかない世界だ。しかし、国民も企業も「役に立たない政府はいらない」と思っているのだから、それは遅かれ早かれ捨てられる。

あり得ない話ではない。「日本」という国を考えてみれば、理解できるかもしれない。

国民は、日本の国家をどう思っているのか。正直なところ、もう誰も政治に期待していない。

自民党も民主党も役に立たない。しかし、選ぶ政党がない。だとすると、選挙を何回やったところで結果は同じだと思っている。

企業もまた、日本の政府が邪魔だと考えている。政府は役に立たないくせに税金をがっぽり持っていく。官僚は様々な規制をかぶせて企業活動を制限する。

どちらから見ても、日本政府=国家は「やるべきことをやっていない」のであり、歳入も歳出も管理できずに「混乱を増長させている」ものなのだ。

日本だけではない。グローバル化が進んだ社会では、あらゆる国がそのようになってしまっている。

これは、もはや国家という概念そのものが機能不全に陥っているということだ。


今の「国家」という形はもう存在できない

是正されないものは捨てられる。だから、今の「国家」という形はもう存在できずに消えてしまう類いのものだと言える。

国家が崩壊していくのであれば、崩壊したあとに何か別の形のものが出てくるのだろうが、それが何かはまだ分からない。

しかし、まずはあらゆる国の国家がグローバル化によって混乱し、最後には崩壊するのだと考えれば、「これからどうなるのか」と五里霧中に放り出されなくて済む。

(1)グローバル化が加速する。
(2)国家が取り残される。

今はここまで来ている。これから先はこうだ。

(3)国家が問題に対処できなくなる。
(4)世界が大混乱する。
(5)国家そのものが同時崩壊していく。

ひとつの国が崩壊するのではない。崩壊するときはバタバタと崩れていく。皮肉にも、グローバル化によって全世界がつながっているからだ。

そして、この「国家の同時崩壊」が起こるのは、そんなに遠い未来の話ではない。

だから、突如として国家崩壊の事態に放り出されて驚愕するよりも、「いよいよ来るべきものが来たか」と覚悟しておいたほうがそのときになって慌てずに済むはずだ。

時代に取り残されたものは捨てられていく。次にやってくる大きな波は、想像を超えるものになるのではないだろうか。』引用終了。

 概ね上掲文章の内容は現状を言い当てている、と考える。それ故、今や機能不全に陥りかけている「国家」とは一体何なのか?と今後の展望を考えるために、私は遅まきながら、この問題を提起し続けて来たのである。


 今のような形態での国家は、現在発生している隣国とのもめ事を観れば、「国家」がしゃしゃり出ることによって事態を益々悪化させるだけである事実からしても、いずれ崩壊の道を辿る他ないであろう。ただ引用した文章には、今後どうすべきか?の方向性は示されていない。

 
 ここで詳しくは述べないが、私論としてはこれまで例会で取り上げてきたテーマ中の”国家”と対比して掲げて来た”個人=人間”に焦点を置きたい。このように行き詰まった局面を打開することが出来るのは”人間”にウェイトを置いた生き方や考え方しか無いのではなかろうか?

 
 人間が人間らしく、驕ること無く地球上に生かされている生き物の一つの「種」として分を弁えた上で、欲望をあからさまにすること無く、謙虚に共生を図って行く。それ以外に考えられる展望はあるだろうか?(これは私個人の考えなので、他の参加メンバーの考え方も聞いて行きたい)


 ところで、9月例会レポートに戻ると、他の参加メンバーK氏とT氏のご意見は、前田試論に基づいては「具体的に、どの立場も採り得ない」という結論で、補足すれば「現実的な考えを加えた修正を要する」というように私には理解された。


 それで、10月例会では、この点についてご両所のご意見を伺うことを中心とし、時間があれば、上掲の文章および、もう国家は当てにしない「個人=人間の時代」への考察を深めてみたい(文責:城 久道)。


 10月例会は下記の日時、場所とする。(尚、例会場前の紀陽銀行駐車場は土日、祭日に限り、開放されているので車の方は利用可能)


場所: 紀陽銀行本店裏カフェ&パブ「トリニティー&ユニティー」2階予約席
日時: 10月13日(土)午後1時30分より

「トリニティー&ユニティー」TEL: 073-423-5220

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2012年

8月

27日

しゃらくさい人生覚え帳

台風の片男波
台風の片男波

20:33 2012/08/26(日)-晴れ(沖縄に大型の台風接近中)-

 兎に角、人間というのも生き物だから、結局「存続あるいは継続=生」と「停止=死」の間を不安定に漂っている存在なのだ、としか言いようが無い。そして、或る日、その連鎖は突然、切断され、停止する。

 

 海岸縁で夜になっても大音を発するアンプを持ち込み、リズム主体のElectronic Musicを流し続ける茶髪のチンピラを放置する法治国家の警察はどうなっているのか?夜9時近くなったが、1キロあまり離れた家の書斎でこれを記していても、一向に収まる気配もない。

 

 さて、Twitterで知ったTBSの報道ステーションによれば、日本国内で米国による原爆投下訓練が未だに密かに行われている可能性が高いようだ。客観的情勢から判断すれば、十分あり得る事態だ。この報道の内容を見れば、可成り信憑性は高いと考えられる。時間の許す方は、私のブログ「ぶらいおんの詞藻アンソロジー」の動画のコーナーで紹介しているので、是非チェックされることを推奨したい。勿論YouTubeでチェックされるのも良いだろう。
『元米軍兵士4人の証言・・・在日米軍の核』 http://www.youtube.com/watch?v=nJpj4Oh0Nd0&feature=colike

 

 また、先程NHKのETV特集でやっていた「オキナワとグアム」を観ていたら、その中で指摘されていた問題点で、普段から主張している小生と同意見の個所があった。それは安全保障を言い立てるのは、結局、国家権力である、という点だ。それは日本国も米国も言ってみれば、同じ立場だ。しかし、沖縄やグアムという島(もしくは地方に)に住んでいる人達の立場とは一致していない。。彼らは軍事的な優位性を競って安全性が保たれるかのような、あやふやな亡霊に縋って、先祖伝来の土地を奪われ、望みもしない危険に曝されるよりは、人的、文化的、あるいは経済的交流を深め、国境を越えて、お互いに仲良く共存することを望んでいる。それを押さえつけ、彼らだけに不自由や危険を押しつけているのは、本土と呼ばれる地の住民たちのエゴや差別以外の何ものでも無い。

 

 周辺国の軍事的脅威を言い立てて国内の不満の目を外に逸らせようとし、軍需産業や一部の資本家がそれを利用して金儲けをするのを助け、その収益を還元させようとするのは、権力に群がる政治家や役人たちの常套手段ではないか?これまでの歴史がはっきりそれを教えてくれているのに、未だに蒙昧の目を開かず、くだらないテレビやつまらぬ新聞などに振り回されている人々の何と多いことか?今、日本が置かれている近隣諸国との軋轢を千載一遇の好機と捉え、それを最大限に利用しようとしている、つまらない奴原のプロパガンダに易々と載せられ、拳を振り上げている人々よ!怒りの対象とすべき方向が間違っていることに早く気付くべきだ!それは大愚の原発人災を引き起こした東電で有り、起こった事実を隠蔽し、自らの責任を誤魔化すばかりの日本の国家権力、それを支える霞が関の役人、金を貰って奉仕する御用学者たち!そうでしょ、先ず、

それ以外に何処に怒りを向ける!と言うのですか?

 

 純粋に尊い生命を捧げた300万人の人々の死を、実に馬鹿げた無益な戦争の、単なる犠牲者にしてしまって、恥じることの無い先の戦争責任者たち、無能で適切な判断力や行動力の全てを欠いていた参謀本部、それに為すことも無く追随するのみだった官僚ども、それらの伝統と亡霊は今も健在そのものではないか!?

 

 私の電子書籍8月27日(月)から有料(330円)になりました、宜しく。
http://p.booklog.jp/book/27330

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2012年

8月

24日

電子書籍「夢*現 物語(一)第1話-第10話」出版

デフォルメ写真「ユリカモメ」
デフォルメ写真「ユリカモメ」

11:13 2012/08/24(金)-曇り、一時雨-

 もう、こんな日付になってしまった。色々やっていたんです。でも、もっと順序立ててやれば、別の順番でやらねばならぬ事もありました。しかし、もうこうなってしまっ たのですから、この状態で取り敢えず進みましょう。多分、大部分の方々にはSNSの仕組みで、もう伝わっているかも知れませんが、電子書籍「夢*現 物語(一)第1話-第10話」を処女出版し、今現在は無料宣伝期間として提供、PRしていますが、これは26日(日曜日)一杯で、27日(月)午前零時からは330円で販売されます。今ならPCやスマ ホで、またいずれ、楽天のKoboのようなブックリーダーでも、ダウンロードして読めるようになるはずです。ここに宣伝をしておきますので、よろしくお願いします。

 より面白いものを書くことこそ喫緊の要事(きっきんのようじ)でしょうが、今やこれを、何とか恰好を付けない限り、他に糊口の凌ぎようもありません。頑張りますので 、ご意見、ご感想、論評など、ご指導をよろしくお願いします。

 「詩をきっかけとして考える会」の関係者や友人の方々には、今や大分日時も経過してしまいましたが、大いなる成果もあった7月8日の東京ミーティングのリポートもな るべく早く致します。その後の一身上の環境変化もありました。東京からやってきた孫たちとも海で遊びました。当方の思惑とは無関係に老母も今年の夏の誕生日を過ぎ、満 101歳となりました。どんな人間も経時変化から逃れることは敵い(かない)ません。人間社会の欲望と自然の摂理は相容れず、矛盾の中で生きて行かねば成りません。「 所詮、現世(うつしよ)はそんなものさ」と達観した振りをするか、悩みながら、振幅する感情をどう制御し、そのような”じゃじゃ馬”を、どう乗りこなして行くか?そん なリアルな現象をクールに、面白がって眺めた視点から、上手く纏めれば、少しは読むに耐えるものが出来上がるでしょうかね?「難しいな、いつまで経っても、よく分から

ないなぁ!」

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2012年

8月

14日

これが”憂き世”というものか?

憂き世の暗い雲
憂き世の暗い雲

 結局、真っ当なものだけが適切に死ねるのか?つまり、言いたいのは、今の世の中見ていると、とても真っ当とは思えないものばかりが氾濫しているでは無いか。つまり死に損なった者共が公害を撒き散らしてる、とも言える。放射能がれきからの歓迎されざる放射線だけでも辟易しているというのに。

 

 訳知り顔で「人間の命は地球より重い」とほざいた過去のネズミ面宰相の面(つら)が目に浮かぶ。こういった類いのいかさま発言が最も困りものだ。

 

 ”人間長生きすりゃあいいってもんじゃないし”ましてや、人間の長生きだけが正当化される理由なんざァ、どこ探したってありゃあしねぇんだよ。人類の欲望丸出しの発展は、それ以外の生き物からすりゃぁ迷惑千万てぇもんだよ。ま、己の分を知れ!ってとこかな。

 

 適切に生き、適切に逝く。これこそ理想であって、それ以外の生き方なんざぁ、糞くらえってなもんよ。俺っちには、そんな上手いこと出来るかな?出来りゃぁカッコいいんだけどな。

 

 NHKのBS放送「ワールド・トゥナイト」という夜10時からの番組を概ね見ているのだが、昨夜はキャスターが冒頭で「ロンドン・オリンピックで、この番組は2週間のお休みを頂きましたが、その間、世界は休むこと無くめまぐるしく変動しておりました。なぜオリンピック放送のため、この番組が休止するのか、と言う厳しいご意見も頂きました」なぞと寝惚けた言い訳を述べていたが、第一にそんな当たり前のことをわざわざ言い訳すること自体が全く理解できない。

 

 この公共放送と称する放送機関は個人から視聴料を徴収して(仕組み上あり得ないとは思うが)厳正中立な報道を行うことを掲げているのでは無いか?だったら、スポーツやイベントで都合の悪い事態から目を逸らそうとするだけの世界の国家権力になぜ迎合一辺倒なのか?積極的に疑問を呈してゆくことこそがジャーナリズムの使命では無いのか?

 

 尤も今や組織に属するジャーナリストは単なる出世争いにうつつを抜かすサラリーマンに過ぎず、一匹狼で孤軍奮闘している無名のハングリー侍の中にしか真のジャーナリズムは存在しなくなっているのであろう。

 

 毎週金曜日の夜には総理大臣官邸の周りで「脱原発」をアピールする、無視し得ない数の市民のデモが繰り返され、シリアでは女や子供を含む市民たちが何千人も何万にも殺され続けているというのに、どこの国がメダルを何個獲得したとか、島の領有権を主張するアスリートのメダルを取り上げ、懲罰するか否か?なぞにしか関心が向かないとすれば、余りにも次元が低すぎる、と言わざるを得ない。

 

 つまり、真っ当なものは長生きすることは出来ず、どうでもいいようなものだけが氾濫し、続いてゆく。これが”憂き世”というものか?

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2012年

8月

13日

稀代の悪法ACTA反対!-もっと声を大に!!

亡き詩人山田 博氏の反戦パフォーマンス
亡き詩人山田 博氏の反戦パフォーマンス

皆様へ

 毎日、暑いですね。ご無沙汰しておりますが、元気でやる気満々です。これから数年間は使用する筈の新しいデスクトップPCの調整に追われておりました。

 そんな訳で、先ほど締め切り間際30分前、内閣府にパブリックコメントを送信しました。内容は次の通りです。『人類を含む地球上の生き物の命の存続を第一に優先させねばならない。
脱原発を即時実施をすること。 再稼働も許してはならない。絶対反対!
 現在も増え続け、確実な廃棄処理方法さえ見つからぬ使用済み核燃料をこれ以上増やすことは如何なる理由があろうとも何人にも許されない筈だ!
 原発0%以外の選択肢無し。』

 世の中忙しい。次は悪法ACTA反対の件だ。YouTube の解説で理解を深めよう! 『http://www.youtube.com/watch?v=NbfS6PaG6Hc&feature=colike』 この動画は後ほど、私のブログMy Favorite Things! ぶらいおんの詞藻アンソロジー  http://buraijoh.jimdo.com/ の動画コーナーでも案内するので、是非そちらで視聴して頂き、大きな声で反対の意思表明をして頂きたい。

 もし、城山三郎氏がご健在だったら、どんな反対運動を展開されただろうか?想像力を高め、先人に負けない熱情を持って事案解決に邁進しよう。
 暑いからと言って世界の流れ(勿論、この島国も含め)は待っちゃあ呉れないよ!生きてる間にやることやらなくちゃア、とまあ、そう思うんですよ

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2012年

7月

26日

7/22「原発さよなら行進@和歌山1」

「原発再稼働反対」
「原発再稼働反対」

 2012 年7月22日の日曜日Twit No Nukes 和歌山主催の”第1回原発さよなら行進”に参加して来た。同行したのは「詩をきっかけとして考える会」世話人で、PAM同人のメンバーでもあるM.T.さ ん。前日の7月例会に出席されたT.K..さんも参加の意向も洩らされたが、和歌山城の周りを炎熱も冷めやらぬ時刻に歩き回る訳だから、体調を慮って自重 されるよう申し上げた。スタート予定時刻16:00より二、三十分前に集合場所に到着してみたら唖然とした。パラパラとまばらな人影が見えるのみ、東京 代々木公園の16万人大集会が頭にあっただけに『これはどうしたことだ!?』と戸惑い、一度は引き返し掛けたくらいだ。

  しかし、和歌山生まれ、育ちのT.さんを初め、他の参加者も泰然として驚く様子も見せないので、心を取り直し、東京生まれ、育ちの私もデモに加わった。行 進に参加された知り合いのK弁護士が再三計数された報告によれば、参加者は200名、うち親御さんに手を引かれたり、抱かれて歩いた子供たちは20名との ことであった。

 その様子はこのブログの動画コーナーでも紹介しているので、是非ご参照下さい。この中に間もなく79歳の誕生日を迎える私の姿もチラと登場しているのも、ご愛嬌!

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2012年

6月

05日

”檄”-東京ミーティング(七月八日)

東京ビッグサイト
東京ビッグサイト

 大変ご無沙汰して居りますが、いかがお過ごしでしょうか?

 右を向いても左を向いても閉塞感に満ちた時代となりました。大災害後の日本ばかりではありません。ユーロ圏を初めとする欧米や先進国のみならず、活気に満ち溢れ、可能性を大いに孕み、これからという期待の高まるアジア新興の国々も、その顕著な発展を示す数値が早くも失速気味となり、停止や下降を始めたようです。

 一刀両断すれば、人類の、一気に欲望の果てに向かおうとする趨勢と、エネルギー問題同様、いやそれ以上に制御不能に陥った市場原理資本主義のもたらす当然の帰結、と言えるのでありましょうし、またそれ以外に言いようも無いのでしょう。

 ここで人類だけが繁栄を続ける筈である、あるいは続けねばならぬ、という必然性は当然のことながら全くありませんし、節度を忘れた愚かな人類が向かう窮極の運命に抗うことも、また身の程知らずの傲慢さと言われるのでしょうか?

 氷河期を乗り越えられずに滅亡していった数々の種同様、ホモサピエンスが同じ道を辿ったところで、それは寧ろ自然なことゝ考えられます。

 ところが一方で、幸か不幸か、あるいは滑稽にも、と言うべきか?生き物、勿論ヒトも生きている限り、腹が減るから喰わないわけにはゆかぬし、喰わねば、いずれ、それも確実に生命を失うことになるという事実が厳然として存在する。然るが故に、多分大方の人々(無論、私も含めて)は仕方無く何らかの方法(現役時代に積み立てた年金の受給によるとか、貯金の取り崩しとか、家族やその他の人々の協力や、支援とかによって)何とか、このクソ忌々しい市場原理資本主義の世界から即刻逃げ出すことも叶わない侭、半ば以上は諦めの境地で、ご飯を食べて命を繋いでいるのが現状でありましょう。この私も決して、その例外では無いのです。

 今年の七月で101歳を迎える母の口癖では無いが、「何も出来ずに生きていても仕方が無い」のも当然でしょうが、そう言う口の下で本人は本能的に食べた いものを食べようとするし、何とか生きようとしているのが明々白々の事実であります。「もっと楽に生きたい」とは、誰しも考えるであろう。私だって、もし 101歳の母と同居していなければ、なけなしの金を工面し、苦労して今住んでいる家のローンを払い続ける必要は無いかも知れぬ。少人数の家族構成には贅沢 すぎる、少しばかり広いスペースを確保し続けているのは、成る可く自立状態を保ちながら居宅介護を行うという目的に沿って、そうせざるを得ぬ当然の帰結で あり、より小さい家で、もっと便利な場所に立地する低所得者住宅にでも移った方が、色々な意味でよりイージーに暮らせることであろう。だが、与えられた現 実がそうでは無いのだから、そのことをぐずぐず言ってみても始まらぬ。問題はその状況を如何にして切り抜けるか?に尽きる。

 いつものように前置きが長過ぎたかも知れぬ。本来の技術翻訳の仕事依頼が殆ど消失し掛けた時、幸いなことに、親しい知人を介して和歌山市の然る病院のアドバイザー乃至事務長として病院をみて貰えぬか?という話が舞い込んで来た。

 私の親父は歯科医師だったし、母方の祖父や叔母は医師、という環境にはあったが、私自身、医師や歯科医師には生理的に馴染まぬという感覚を有して来たの で、この業界には全くの門外漢であって、何の経験も有していない。従って、引き受けるべきか否か、可成り真剣に考慮したが、実質的な事務長職では無く、ア ドバイザー、コーディネータ、コンダクターくらいの心算で引き受けることにした。今年の3月から、この中小病院に出勤し始めた。
 フルタイムでは無い。オーナーからは週1でもよい、と言われており、報酬も自分が技術翻訳をやっていた時の生産性からすれば、丁度それに相当するくらい の額だ。つまり、一ヶ月が4乃至5週間だから1週間の出勤日数4-5日間を各週に当て嵌めれば、週に1日出勤すればバランスが取れる。しかし、週に1日し か出勤しなければ、現実に派生する日々の懸案に手を染めることさえ覚束ない。
 従って、今は慣れぬ世界に週に3日間出ることに努めている。報酬の伴わぬ後の2日間はボランティアの心算である。オーナーの心意気に共感するところと、 己自身の納得のためである。また一方で、私の残りの人生全てを病院事務長職に捧げる心算は無く、私には書いて、残し、伝えるという仕事がある。その時 間のために選択の自由度を残して置きたい、という思惑もある。その書き、伝えるという窮極目標実践の為の時間が今より緊急となったら、いつでも躊躇いなく、そちらに振り向け ることが出来る余地を自ら確保しているという意味もある。

 とは言え、私をよく知る旧友は、『事務長就任よかったですね。頑張って下さい。でも、病院という所は人間関係が陰湿でとくに女性が多いので、君にとって は虎の穴に素手で入って行くようなものー、老婆心ながら気をつけて下さい。』とメールを呉れたが、既に思い当たる節もある。

 そんな事情で、物理的に時間も不足し、皆様方への連絡も疎遠となり勝ちであった。お許しあれ!


 ところで、書き、伝える具体的な手段としての出版物の刊行、より具体的には文芸詩誌「PAM」の再発行は可能だろうか?休刊中の同誌の有力な書き手でも ある版画家松本旻氏からは予てから連絡があり、止むを得ず中断に追い込まれた抄説「長谷川等伯」の連載を完結させたいが、「PAM」の再刊は断念したの か?と訊ねられていた。要は費用捻出の問題に尽きる、というのが私の答えであった。

 上述した私の経済状況のみならず、私がこれまでにお付き合い頂いて来た殆どのアーティスト達で、物故することなく生きながらえて来られた方々は、高齢と なられ、言うまでも無く、多くの方が実生活に直結して必要とされる器具や食糧、身の回り品には属さぬ作品をもって活計を立てゝ居られ、そういうことが最も 困難な時代に直面しているというのが現状である。

 はっきり申して、我々のような貧しいアーティスト乃至表現者(端くれではあるが、私も)が、かような企みを意図するのは誠に無謀、またそれには、最も不適切な時代であると言われることは間違い無かろう。

 しかし、金が無ければ諦めるしか無いのか?そうなら、地獄の沙汰も金次第、の汚い金に振り回され、罪の無い人々に災いをもたらそうが、無垢の子供たちの 生命を将来に亘って脅かそうが、一切斟酌すること無く、原発マネーに群がる実業家、政治家、役人、御用学者と大して変わるところが無いではないか!それで よいのか、それであなた自身が納得出来るのか!

 費用は実費のみに努め、最低限で”止むに止まれぬ思い”を記し、表現し、伝えることを怠り、漫然と悲嘆に暮れるだけでよいのか!遅かれ早かれ、どうせ死 ぬ身だから何がどうなろうが、知ったことでは無い、とも言えよう。だが、どうせ死ぬ身だからこそ、やるべき事、やりたいことは、きっちりやって、あの世へ 行こうでは無いか。

 費用の掛からない方法を検討し、別に「PAM」の再刊で無くとも構わない。「うめぼしの種」の執筆者達と一緒でも、もっと大勢の人々に参加して貰って、どんな形のものでも構わないから、世の中に向かって一寸の虫にも五分の魂のあることを示せれば、それでよいでは無いか!

 これを一期一会の機会と捉え、意欲ある表現者たち、また、それを支えてやろうという協力者たちにも集まって頂き、このプロジェクトの可能性を探る機会を 作るため松本旻氏と相談して来る七月八日(日)に東京の然るべき場所を設定することにした、無論私も参加する。万障お繰り合わせの上、是非お集まり頂きた い。実質的に執筆して参加希望される方のみに限らない。顔を見せて頂いてご意見をお聞かせ下さるだけでもよい。また、時間が取れない方は別な方法、たとえ ば、手紙、メール、電話何でも構わないので、ご意見を賜ったり、何らかの形でご協力を頂きたい。
 時間は当日午後からとし、場所は適当な所があれば教えて頂きたい。特に別案が無ければ喫茶室「ルノアール」のマイ・スペースを予約してもよい、と考えている。
 また、人数の確認のため、6月末日までに参加の可否を私にでも、また松本氏にでもご連絡頂きたい。

 長たらしくなったが、この型破りの檄文というか、メッセージは私や松本氏が仲間として思い浮かべることの出来る方々に広く伝えさせて頂くことにする。忌憚の無いご意見ならびに出来る範囲でのご協力を心からお願いする次第である。(文責:城 久道)

                           二〇一二年六月三日

連絡先:城 洋司(久道)
〒641-0022 和歌山市和歌浦南3-5-6
                      

     :松本 旻
〒228-0303 相模原市南区相模大野7-36-1-1019

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2012年

1月

31日

「打出の小槌と放射能ちり」の童話

和歌浦の魚 沖ベラ
和歌浦の魚 沖ベラ

 東大工学部を卒業して東京電力福島第二原子力発電所に勤務し、事故前に退社した後、熊本医大を出たOnodekitaこと、医師小野俊一氏の講演動画「フクシマの真実と内部被曝 2012年1月26日 於やましろ病院」を観て、信じたくはないのですが、ショックを受けました。

 今朝、自分の「しゃらくさい人生覚え帳」を開きましたが、最初何も書く気がしませんでした。PCを終了させようとした時、浮かんで来たので、久し振りに詩を書きました。それが、これです。

 
「打出の小槌と放射能ちり」の童話
                       城 久道

 しんしんと降り積もる
 音もなく 人知れず
 明るい陽射しの中を
 密やかな月光の下に
 しんしんと降り積もる
 放射能ちり

 自然が生み出した物ではない
 金(かね)に目が眩み
 人が造り出した
 打出の小槌
 振れば振るほど 降って来る
 黄金(こがね)の雨

 それを使えば楽になる
 人々は重労働から解放され
 腹一杯食べて 着飾って
 放射能ちりの積もった 街へ出る
 公園では 小鳥さえずり
 幼子は走り回る

 声も出さず 姿も見えぬ
 怪獣が襲いかかろうとしている
 人々は気付いていない
 いや 気付かぬ振りかも
 便利さは捨て難い
 小金でも欲しい

 そういう人達が居るから
 打出の小槌メーカーは安泰
 貧乏な村には 札束を叩きつけろ
 学者の功名心を 金で擽(くすぐ)れ
 政治家は 堂々と金で買える
 うるさい奴らは マスコミで潰せ

 いつの間にか 降り積もる放射能ちり
 人間の寿命を遙かに超えて
 分裂し 放射線を出し続け
 生き物を 化け物としようが
 打出の小槌を放さない俺
 には無関係

 ヒトの寿命は百歳くらい
 後はどうなと きゃあなろたい
 
 しんしんと降り積もる
 音もなく 人知れず
 明るい陽射しの中を
 密やかな月光の下に
 しんしんと降り積もる
 放射能ちり

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2012年

1月

15日

「しゃらくさい人生覚え帳」120115(日)曇り

紀三井寺 大仏
紀三井寺 大仏

 例の回状のレスポンスがボツボツと返って来る。T.M.君のメールも早かったが、K.A.さんには年末に出したので、新年早々直ぐにメールで返信頂いた。

  昨日はメールアドレスが長らく分からなかった調布在住のA.Y.君から応答があった。以前、大相撲東京場所に誘い、一緒に観に行った時にもトイレばかり頻 繁に通っていた前立腺肥大症状がその後どうなったか?訊ねたところ、実は前立腺癌だったらしく手術をし、体力回復に努めていたとのこと。今朝もこちらの返 信に対する短いメールが届いていた。矢張り、どうやらPCよりも携帯の方へ送信した方がよさそうだ。

  ところで、今朝の日曜美術館ではベン・シャーンの展覧会の案内をしていた。葉山美術館で開催中という。鎌倉近代美術館は無論、何度も行ったことはある。だ が、葉山館の方はどうだったろう?ちょっと自信はないのだが、一度だけ行ったような気もする。しかし、はっきりした記憶は無い。
  いずれにしても、今、金の心配さえなければ、直ぐにでも出掛けて行くのだが…。こういう時は、矢張り金の心配の無いのが、良いことになるのだろう。それに しても観に行きたい。三崎辺りで捕れた魚も食ってみたいが、今は放射能汚染も無視できない。全く心配がないと言うことはあり得まい。

  それにしても、東京や近辺に住んでいる連中は、私の眼からすれば、皆鈍感に映る。これは屹度私が地理的に或る距離を置いて眺めることが出来るのと、東京に 暮らし、その中に埋没している彼等にしてみれば、不安を抱きながらも周りが平静を装っているのを見て、自らをも安心、納得させ、それによって、己の不安、 不信感を誤魔化し、何かに紛らわせ、悲観的な状況を極力考えたり、感じたりしないように過ごしている様子がありありと見え、それを横から私は、よりクール に観察し得るからなのだろう。

  だから、そんなところに住まざるを得ない人々は、或る意味では気の毒で、哀れな姿にも見えるし、彼等自身に意識のあるなしに関わらず、鈍感な神経の氾濫と言う風に映るのであろう。しかし、それは東京という大都会の中に埋没し、漂っている連中だけの問題には留まるまい。日本列島に生息している人間全体が外の國から観れば、さぞ同じように見えることだろう。

 悲劇的状況に取り乱すこともなく、略奪や反乱も起こさず、ひたすら日常生活において平静を保とうとし、個人の自由な思考をマスという顔の無い多くの数や量の圧力によって無力化するという日本人の生き方は、個性のより確立されたドイツ人やフランス人のようなヨーロッパの人々からすれば、矢張り、可成り異常な、理解に苦しむような状況なのかも知れない。

 今朝の朝日新聞読書欄でも紹介されていた、フランスのレジスタンス活動家、ステファン・エセル著の「怒れ!憤れ!」はその対極にある生き方と言えるだろう。その紹介文の大見出しは「不正義に個人として立ち向かえ」となっており、その文中には、こんなエセルの一節が紹介されている。『よい人間であること、あるいはよいことをすることなど、どうでもよかった。意味のある人生、責任のある人生を送ることが重要だったのだ。』

 私は、この考え方の方により共感を覚える。つまり、重要なのは他人の思惑などではない。自らの責任を覚悟することによって初めて得られる”意味のある人生”こそが生きるに値する、ということなのだろう。

 先の大戦の際にも、また今回の大震災により誘発された原発事故においても、責任を取ろうとしないどころか、責任を回避し、誤魔化し通そうとするリーダー(責任者)共と組織(大本営同様の関係官庁、そして大企業など)ばかりで、そこには何の進歩も反省も見られない。何度繰り返しても改革はあり得ないのか、懲りない人々にも呆れ果てたものだ。言葉もない。

 (文章としては、ここで終わった方が、常識的には収まりがよいのだろう。でも、敢えてそれに逆らい、次のように続けて終わることにする。)

 それでも尚、私は言葉を発し続けよう。たとえ、読者や隣人たちに顔を背けられ、顔を顰められようが、そんなことは恐れず、発信し続けよう、自分の信ずることを発言し、伝え続けよう。それが、この時代を生きた私の責任である、と信じるからだ。

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2011年

12月

21日

<一日一書>No.2(百八十)「物は考えようだ!」

『今日は土曜日。
 天気は晴れ。』
 
 さて、今日の話を始めよう。

 
  考えて見リャ、俺っちはョ!結構、恵まれてるって言えるのかねぇ?

 いや、金のしんぺぇはあるよ。何たって仕事がネェーンだから!あと二年も経ちゃあ、この家から放り出されるかも知れねぇーんだからな。

 でもよ、癌とか何とか、死病(しにやまい)ってわけじゃねぇーから、運が向いて来りゃあ、また、何とかなるかも知れねぇーしな!やることなくて困ってるってわけでもねぇしよ。

 書くことは、いっぺぇあるのよ。この間、頼まれた社内研修講義の内容を書き留めて置くことも出来るし、やっといた方が良いかもしれない。曰く「仕事とは、あなたにとって何ですか、どんなものですか?-ひとりの昭和一桁生まれ男、自らの体験を語る」ってな具合さ!

 自分じゃ、どうかな?って思ってたけど、思いの外、好評だったみたい。つまり、ちょっとだけ先を歩いて来た人間の体験も、案外思わぬことに役立ったりするのかも知れない。

 だから、或る時代を生きた一般人の記録も、時を経てみれば、それなりの存在価値が出て来るのであろう。それ故、私には自分の生きて来た記録を残す務めがある、と言うことだろう。

 そう考えりゃあ、「何故、金が無くなっちまって貧乏する破目になったか?」だって十分書く意味が出て来る。そう思うと、益々楽しくなって来る。

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2011年

12月

03日

<一日一書>No.2(百六十五)

和歌祭り
和歌祭り

「先送り-逃避-自他欺瞞主義」

『今日は金曜日。
 天気は曇り、気温低し。』
 
 さて、今日の話を始めよう。

 
  本年は辛亥革命から100周年という。孫文が亡くなる前、最後に日本を訪れた際、政府は東京への立ち入りを拒み、止むを得ず孫文は神戸で「大亜細亜主義」をテーマに講演を行った。その最後部分を紹介しよう。

 曰く『貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取り入れると共に、他面亜細亜の王道文化の本質をも、持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるのか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。』

 それから100年後、日本は孫文の喝破した通り、”詳密な考慮と慎重な採択”を真剣に行ったか、否かすら甚だ怪しいものだが、今や将に覇権国家米国の鷹犬(ポチ)に成り下がっている。これが、現実の日本の姿である。

 2011年12月1日の朝日新聞「天声人語」には、沖縄の悲惨な歴史と現在に触れる、次のような記述がある。『(前略)▼1955年、沖縄を怒りで奮わせた「由美子ちゃん事件」の犠牲者は6歳だった。米兵に暴行された遺体は、海岸で雨に打たれ、手を固く握りしめていたという。他にも、基地の島で繰り返された性犯罪は数え切れない▼(中略)』。このコラムの最後は次のように結ばれている。『戦後、66年。押しつけておけば済む話では、もうない。』

 筆者は、このようなジャーナリストを含めた現在、大方の日本人が示す態度に怒りを禁じ得ない。このコラムにおいても、それは如実に示されている。つまり、その最後に続けて、「では、どうすればよいのか?」の問題提起と方向性に関する論点が全く提示されていないことだ。

 筆者の識る限り、日本国の沖縄県以外の都道府県で、積極的かつ実現可能な形で沖縄軍事基地を引き受けようと表明したところは皆無である。そうとなれば、 次の論点は自明である。大方の日本人が認めようとしない覇権国家米国の軍事基地をこのまま放置し、自分(本土)は嫌だが、他人(沖縄)にならば押しつけ て、己を誤魔化し続け、人間としての良心を放棄した状態で恬淡として些かも恥じることは無いのか?日本人(政治家から一庶民まで)の資質を根本的に問い糾 してみたい。

 そこには、王道文化の片鱗すら見いだせないではないか。

 筆者はこれを、今の大方の日本人によって形作られる、日本国の「先送り-逃避-自他欺瞞主義」と名付けよう。
 (ここにおいて、“欺瞞”に冠した“自他”について説明を加えておこう。“自”は自らの結論を先送りし、己の立場を曖昧にして、自分自身を誤魔化すこ と。それと同時に、他者に対しても自分の立場を鮮明にすることなく、曖昧なまま結論や意見を先送りする事態を意味している。)

 沖縄問題-日米安保条約の根本的見直しの他にも、赤字国債を発行し続ける姿勢、然り。また脱原発問題の結着回避も、然り。アメリカンスタンダードのグローバル化による大損失を真正面から確認しようとしない去勢体質、然り。およそ、枚挙に遑が無い。

 それらの資質を備えることが、既に或る種の要件となってしまっている政治家共はいざ知らず、それを覚醒させねばならぬ立場の市民たちまでが、その同類に堕してしまって、どうする?

 日本国のみならず、そんな国ばかりが増えれば、間違いなく、救い難い人類の末路もそう遠くはあるまい!

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2011年

11月

30日

2012年睦月に向けた知人への回状

浅草寺
浅草寺

  いつの間にか三百六十五日が経過し、また別の三百六十五日が始まります。

 ご無沙汰して居りますが、その後如何でしょうか、お伺い致します。

 当方は、本年百歳を超えた母を含め老人三名、経時変化を受けつつも、幸か不幸か完全腐食に未だ至らず、馬齢を重ねております。

 さて、年末になると、喪中の葉書が目立つようになります。それも自分の加齢に連れて増加するようです。そうなると、正直言って年賀状を出せる人と回避しなければならない人との仕分け作業が求められます。

 おまけに本年三月十一日の東日本大震災、特に東京電力福島原子力発電所の、未曾有の大事故発生以来、日本は深刻な事態に陥っている、と考えられます。
 観ずるに、人々は皮相的な状況に惑わされ、事態を直視し、本質を充分に理解する域には未だ到達し得ていないように思われます。或る意味では大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦時より遙かに状況は悪い、と言えましょう。

 このような環境では、感覚過敏(?)である私のような輩には例年のように年賀葉書で、単純に「おめでとう」とは発言し難いのが率直な感情であります。その上、己の個人的、主として経済的環境も改善の兆しは見られませんので、他人様に余裕を持ってお祝詞を述べるような状況にはありません。

 

 それで思い切って来年(2012年)以降惰性のように年賀葉書を購入し、祝いの言葉を印刷したり、書いたりする類の年賀状発信を中止することに致しました。

  一方、わざわざ、そんなことを事前に断ることなく自分の行動で示せばよい、という考え方も当然あるでしょう。その方が私にとっても面倒は無いのですが、現実には「年賀状が届かないのは、何かあったか?体調が悪いのか?」などのお問い合わせが、あちこちから寄せられたことも過去にありました。


 友人や知り合いの方々に対し、むやみに心配をお掛けしたくないこと、また一々応答することの煩わしさなどを考慮して、この回状を準備したわけです。

 しかしながら、私がこの方針を実践するからといって、他から寄せられる、年賀のしきたりを一切排除、拒否するという気持ちは毛頭ありません。
 ご好意により寄せられた年賀状は有り難く頂戴することに致します。

 ただ単に、形式的な年賀状を当方より発信することは、今後中止させて頂くという形骸的儀礼排除の趣旨に尽きます。悪しからず、ご寛容、ご理解頂けますよう、よろしくお願い致します。
 

 さて、別な話題に転じますが、皆さまとのコミュニケーション手段に関する私の基本的なスタンスを、ここに述べて置きたい、と思います。

 ご存知の方には蛇足となりますが、ここ数年来、私はインターネット上で主として、幾つかのブログに自分の考え方、活動、近況等を記録し、あるいは関連するご案内も兼ねて電子メールを発信させて頂き、それによって皆さまとのコミュニケーションを図って参りました。

 その結果、いわゆるインターネット環境を有している方とそうではない方とでは私とのコミュニケーション(交流)に関して、実際のところ大きな差異が生じて居ります。

 言い換えれば、郵便による葉書や書簡を私が殆ど利用しませんので、それらのみでの連絡手段によっている方々とは、結果的に筆無精で、疎遠となる事態を招いております。全く、自分の都合による結果なので申し訳なく思って居ります。

 しかしながら、私は次のような理由で、今後更にインターネットを介したコミュニケーション手段に集中して行こうと考えております。

 理由は単に、便宜のためです。ものを書いたり、記録したりするのにパソコンを利用するのが、私にとっては最も負担が軽く、便利で、容易です

 具合の良いことには、一度記録したデジタルデータは電子メールとして、またブログの原稿として直ちに利用、転用できます。また、パソコンは利用していなくてもファックスなら受信可能である、という方にはその形式で送信するのにも然程手間は掛かりません。

 更に、日本人男性平均寿命に達しようとしている私が、昭和一桁に生まれ、戦争、その前後、そして二十一世紀のミレニアムに遭遇し、昭和から平成に跨る経済的狂乱状態、それに追い打ちを掛けるような大震災と、愚かな人類の原子力利用に関する重大トラブルの体験を通じて一個の人間として「どう生きたか、何を感じたか?」を拙い筆で記録(たとえば、電子書籍、ブログ記事、電子メールなど)して行くのも全てインターネット上のウェブを介し行って参ります。

 今まで私にお付き合い下さり、私を啓蒙し、支えて来て下さった皆さま方に改めてここでお願い致します。ウェブ上のアドレスは、私が此の世にあり、痴呆状態となるまでは、常にお知らせして参りますので、今以上の交流を、ここを介してよろしくお願いします。

 また、ファックス受信なら可能という方はファックス番号をお知らせ下さい。ファックスも利用しない、という方は電話で私とコミュニケーション出来ます(留守番電話で応答した際もお声一言だけでも残して下さい、こちらから再応答可能となります)。末尾に記しますが、固定電話もPHS(スマートフォン)も、今のところは所有しておりますので、どちらでも気軽にご利用下さい。(手紙や葉書を使用しない言訳です)

 長々と書きましたが、今後とも交流、ご指導、ご鞭撻下さい。
 これからも、自分に出来るところまで、細やかながらも己が納得出来るところまで、突っ走ってみます。

 どうぞ、皆さまもご健勝で、ご自身が納得の行く、毎日をお過ごし下さい。色々有難うございました。

                               2011年師走

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                        城 久道

       mailto: joh@xx.zaq.jp
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ブログ 「昭和一桁の ”老人と海”」:http://oldman-and-sea.blogspot.com/

     「My Favorite Things! ぶらいおんの詞藻アンソロジー」: http://buraijoh.jimdo.com/

ぶらいおんのTwilog: http://twilog.org/buraijoh
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2011年

11月

27日

My Favorite Things!

古座川 一枚岩
古座川 一枚岩

 正直言って現在手探り状態だが、この調子で進めて行きたい。

 

 いずれ、私とコミュニケーションを取って下さる方は、この媒体を通じてお願いすることになる。

 

 それで、前から私のことをご存知の方々には重複してしまうことになるが、これから関わり合いの出来る方や識らなかった人たちのために、一応ここで説明しておこう。

 

 私のニックネーム「ぶらいおん」は、“無頼男”を意味している。

 作家柴田錬三郎氏曰く「無頼」とは自分の規律を守ること
「世間が何といおうと、自分が正しいと信ずる規律に基づいて行動する」
「そういうプライドを持った行動が無頼なんだ」
「つまり知性のコントロールだな」

 

 この柴田錬三郎氏の発言は新潮文庫版「眠狂四郎虚無日誌」中の尾崎秀樹氏による解説から引用したもの。

 

 ホームページ タイトル中の「詞藻」は広辞苑第六版によれば、

 

(1)ことばのあや。辞藻。
(2)詩歌や文章。
(3)詩文の才。文藻。文才。才藻。

 とある。勿論、(3)項ではなく、(1)(2)項の意である。そして、それはまた、"my favorite things" つまり、「お気に入りの事態あるいは状況」といったことになる。

 

 まあ、言い換えれば、私=自分

の全て、ということになるだろう。

 

 突然だが、技術翻訳の仕事は開店休業状態で、僅かな年金収入以外は全く途絶えてしまったので、経済的には今や色々問題を抱えてる。

 

 だからと言って、坐して死を待つわけにも行かぬので、些かでも収入の道を開くべく試行錯誤している。

 

 お知り合いの方々にあからさまなご迷惑を掛ける意思は毛頭有していないが、実質的迷惑の掛からぬ範囲で追々ご協力、お願いもして行くつもりなので、出来る範囲、ご迷惑の掛からぬ範囲でご配慮頂ければ大変ありがたい。

 

 今のところは、このくらいにして置こう。殆ど全てをさらけ出すとすれば、一朝一夕で成る筈は無いから...。

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